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The Moon and Sixpence 投稿者:野崎 準 投稿日:2010/01/07(Thu) 08:08 No.966  

『大坂軍記』道明寺の戦い
 「真田が人数は鉄砲の筒先を並べて伊達家の先手なる片倉小十郎石母田大膳等の人数を目掛けて放ち出し又槍を突入れたり。伊達家の騎馬鉄砲八百挺は其家中の二男三男を選み仙台駒の中にて最も勝れたるを選び出し、馬上より鉄砲を放させけるに百発百中。一つも中らざるはなく玉の飛ぶこと宛然(さながら)雨霰の如く、黒煙天地を覆って咫尺(しせき)も分かぬ。其中に真田幸村は松柏を楯となし兵士に槍を取らせて平伏させ、足軽の討ち倒さるるも顧みず静まりかへりて音もせず。伊達家の馬を駆け入れんとする所を槍を構へて支へけるにぞ、伊達勢しば躊躇(ためら)ふ程に砲声も絶え絶えになり煙も少し薄らぎたり。良き機会(しほあひ)と見て真田勢大音を上げ「懸かれよ者出で」と采を執りて指揮しけるに・・・・伊達勢も一時押崩されまた誉田の街へ引あげし・・・陸奥守政宗は這々の体で小姓共二三人を召し具し伊達組の人数の中へ逃げ込みたり」・・・松平忠輝が追撃の馬印を立てた所に「伊達政宗、片倉小十郎を使者として不案内の敵地と言い日既にに昏(く)れなんとするに追討ちせんとは宜しからず。ご遠慮ありて然るべしと止めける」
 2010年1月7日の「歴史秘話ヒストリア」でやっていましたが、西部劇の騎兵隊のように走りながら射撃するのは間違い。停止して一斉射撃の後抜刀突撃です。『伊達治家記録』にも書いてある。


Re: The Moon and Sixpence 野崎 準 - 2010/01/07(Thu) 09:12 No.968  


「ヒストリア」の感想をネットで見ていましたらサブタイトルの「赤と黒」を「パール・バックの小説」と書いている人がいました。スタンダールの名作も忘れられたのかと。
 『月と6ペンス』は?「兜の三日月と六文銭でしょ?」とは言わないで下さい。


Re: The Moon and Sixpence 武水しぎの - 2010/01/29(Fri) 11:48 No.981  


遅いレスで申し訳ありません。
ひぃばぁさんの退院→肺炎再発(軽症なので在宅で点滴治療中)でばたばたしていました。
野崎さんもお体にお気をつけてお過ごしくださいね。

日本の「騎兵」は映画でイメージする「騎兵隊」とはだいぶ違いますよね。
伊達の騎馬鉄砲ですが、先込めの鉄砲ですから玉込め済みの状態で騎乗、発射時に火縄点火でしょうか。
走っている時、鉄砲をどのようにして保持していたか気になります。撃った後の鉄砲はどこへ? とか。受け取り係が併走してる?
馬上からだと下へ撃ちおろす形になるので、弾道が放物線にならず、命中精度が増す?
やろうとするとかなり課題が多いと思うので、実用化したのはすごいと思います。

「月と6ペンス」思わずにやりとしてしまいました。
子どもの頃、家の近所に「月と6ペンス」というスナックがありました。
小説の題名だと知ったのはずっと後のことです。


Re: The Moon and Sixpence 野崎 準 - 2010/01/29(Fri) 21:36 No.982  


「(馬は)馬上にて鉄砲を放ち見るに耳立てもせぬを秘蔵し武具しても騎(の)りはべる」(徳川家康の諮問に答えて、『伊達治家記録』貞山公治家記録付録一)。
「さらば馬の腹帯とめ草鞋の緒をよくとめよ。冑前がかりに着けよ。上を見るとて内冑射さすな。鉄砲は山際にて一放し高く放せ。当らずとも越す玉には利あり。放し挙げて腰に差し刀を抜け」(同じく付録二)。
 伊達の騎馬鉄砲について、「馬は轟音にナイーブだから馬上からの射撃はありえない」とか「鉄砲を撃った後どうしていたんだろう、捨てて家来が拾ってくるんじゃないか」(海音寺潮五郎・桑田忠親対談『戦国乱世』、角川選書、昭和44年、120頁)とか論じていますが、政宗公ご自身で事前から馬を慣らしておく、射撃の後は腰に差すと言っておられます。
 まあ一発射撃したら再装填の余裕はないですから。中国や西洋の初期の銃には射撃後棍棒に使えるのがありますが、日本の銃は精密工芸品ですからもったいない。
 あと上から射撃される時には低地に伏せるのが一番安全なのだそうで、幸村が取った戦法はこれでした。


Re: The Moon and Sixpence 武水しぎの - 2010/01/31(Sun) 21:24 No.985  


腰に差す。。。なるほど!
帯に差すのであれば、これはこれで熟練が要りそうですね。
けっこう固いですし。。。

高く放せ、越す玉、ということは、上から打ちおろすというよりも、射撃位置が高くなるので射程が伸びる、ということですね。

意外な遠距離から射撃を放つ。
遠距離なので射手は固い帯に鉄砲を差す余裕もある。(近距離だと帯に差してる間に敵に接触しそう)

けっこうイメージかわったかも。



2009/11/28 にメールをくださった方へ 投稿者:武水しぎの 投稿日:2009/11/28(Sat) 22:14 No.921  

メールが Host unknown (Name server: ne.jp.: no data known)で帰ってきてしまいましたので、掲示板での返信でご容赦ください。

天正13年6月の猪苗代盛国と伊達成実の書状は、仙台叢書収録の「仙台武鑑」に全文が収録されているものです。
サイトの記事はそこから転載いたしました。
「治家記録」にも趣意文が載っていますので、「治家記録」編纂時には存在し、おそらく「貞山公治家記録引証記」にも記録されていると思われます。
(「貞山公治家記録引証記」は活字化された本がないので私は読んだことがありません)

しかし、現在どこに保管されてあるのかは存じ上げません。
あまりお役にたてず申し訳ありません。。。。


Re: 2009/11/28 にメールをくださった方へ 猪苗代家の末裔 - 2009/12/31(Thu) 01:42 No.959  


ありがとう御座います。家には、仙台国包が数本伝わっております。
国包を持てるサムライの身分があったのですか?


Re: 2009/11/28 にメールをくださった方へ 野崎 準 - 2010/01/07(Thu) 08:47 No.967  


国包は初代本郷国包から幕末まで13代を数えます。銘の書体がすこしづつ違っていますのでそれを見ないと詳細は分りません。


腰刀か?太刀か? 投稿者:野崎 準 投稿日:2009/10/24(Sat) 10:17 No.882  

『伊達正統世次考』巻九 伊達稙宗公
○天文十一年壬寅六月。自越後令直江大楽両使。来迎公子五郎殿。贈以重代腰刀宇佐美長光竹雀幕。且贈実一字。約為上杉兵庫頭定実養子。因以六月二十三日定発遣。然二十日不意内乱起。終不果。

『伊達治家記録』貞山公治家記録 巻二
○(天正十五年四月)十六日乙亥 従五位下兵部大輔藤原実元入道栖安斉、奥州信夫郡八丁目城ニ於テ卒セラル。年六十一。法名雄山英豪独照院ト号ス。…天文十一年越後国上杉兵庫頭藤原定実家督ニ約セラル。定実ハ稙宗君ノ外祖父ナリ。定実ヨリ諱実ノ一字、累代ノ太刀宇佐美長光、家ノ紋竹ニ雀等ヲ贈ラル。

 腰刀が太刀に変っています。宇佐美の刀と陣幕はこの「天文の大乱」の勝者である伊達晴宗に献上され、伊達家の竹雀紋の起源とされています。
 現在北海道伊達市の博物館にある「宇佐美長光の太刀」は亘理伊達氏が明治になって伊達伯爵家から先祖伊達実元ゆかりの太刀として譲り受けたものだと言っておりますが、事件に近い時代の記録では腰刀(短刀)になっています。さて真実は…。


Re: 腰刀か?太刀か? 武水しぎの - 2009/10/26(Mon) 22:53 No.884  


あ! 本当ですね。気づいてませんでした。
太刀を打刀に直すのは聞きますが、反対ってあるのでしょうか?
世臣家譜の成実の伝記では単に「佩刀」になってます。


Re: 腰刀か?太刀か? 武水しぎの - 2009/10/28(Wed) 00:08 No.886  


「面影丸」読みました。面白かったです。「続」がきになります。。。!


Re: 腰刀か?太刀か? 武水しぎの - 2009/11/26(Thu) 18:39 No.919  


梁川町史5 資料編2 537「氏名未詳覚書」 伊達家文書10-3230

に「かたな」で載ってました。

一ちやけきりのたち、一なかミつ、うさミのとのよりのかたな、……(以下略)

これは腰刀ですね。


伊達政宗の茶道 投稿者:野崎 準 投稿日:2009/11/03(Tue) 19:00 No.891  

 茶道の歴史書でも知られる桑田忠親・国学院大名誉教授(1902〜87)に『武将と茶道』(昭和18年・京都一条書店)というご著作があり、これには東国武将は小田原北条氏と尾張徳川氏くらいしか出てきません。
 ところが戦後出版された『茶器と懐石』(講談社学術文庫版は昭和55年)には古田織部の弟子として「独眼龍で有名な仙台の伊達政宗もその一人です。政宗ははじめ利休にお茶を習い、利休が死んでから織部に習ったのです。私、びっくりしました。伊達政宗という人は荒大名で文化的な教養などないだろうと思っていましたが、非常に素養があったんですね。…政宗の懐石やお茶に関する話も少ないんですが、ちょうどいいあんばいに『命期集』という本がありまして・・・要約してお話しますと、あるとき政宗が言うには、
『かりそめにも人に振舞うとならば料理第一と心得よ。亭主が勝手に入って調べも指図もせずに粗末な料理などを出し、客に虫気でも起こさせたら大変だ。そんなもてなしなら客を呼ばないよりも劣る。昔は、誰人を招くにもその人の好むものを聞き、嫌いなものを除けて料理を出したから気楽だった。ところが近頃は、そのような考えがなくなってしまったので、何とも不安である。人は身分の高下によらず客を馳走するために色々なものを沢山に出すのは無用なことである。一種か二種か品を整え、それにちょっとした物を添え、目の前の料理か、または亭主自ら両視しての盛物ならばそのまま座敷へ持ち出す。これは一種のとりなしと言って良い。珍物をいろいろと出すよりもはるかにましだ。第一に、涼やかに、物事をきれいにするのが何よりのご馳走なのである。さまざまのものを百種も千種もとりそろえ、三度も振舞うよりも、なんとも目に立たぬものを一種か二種づつで、季節にあったものがよい』。と記されてあります・・・」(117−118p)と絶賛されております。引用の『命期集』とは『政宗君名語集』の異名ですが、仙台叢書の原文よりかなり意訳されているようです。

 仙台藩の茶人は古田織部の弟子清水道閑が京都から500石で召抱えられ、四代が片桐石州に弟子入りして以来、清水流は石州流になりました。秋葉天目や猿若の茶入など茶道具のコレクションも有名でしたが、明治以後売り立てにより民間に出てしまいました。



Re: 伊達政宗の茶道 武水しぎの - 2009/11/09(Mon) 00:16 No.901  


そういえば政宗文書にも何点か古田織部あてのがありますよね。
茶道はあまりよく知らないのですが(ネタには強引に使いましたが)、織部のはなんとなく華があって、利休よりも政宗と相性がよさそうな気もします。


Re: 伊達政宗の茶道 野崎 準 - 2009/11/09(Mon) 19:46 No.902  


 古田織部は武人茶道家ですから、実戦経験者同志で政宗公と話があったのかも知れません。
 『伊達治家記録』には金森出雲守、すなわち金森宗和の父の武人茶道家金森可重に大坂冬の陣の最中に会ったとあります。今井宗薫とも交際がありました。


Love VS Crescent 投稿者:野崎 準 投稿日:2009/09/12(Sat) 12:35 No.857  

『常山紀談』巻11の有名な話の原文:
○直江兼続が事
 越後の侍大将直江山城守兼続は、朝日将軍義仲の乳子(めのとご)、樋口次郎兼光が末孫なり。謙信に仕へて景勝に至る。景勝、奥州にて百万石を賜りし時、米澤三十万石を直江に与へられ、陪臣の中第一の大禄なり。丈高く容疑骨柄並びなく、弁舌明らかに殊更大胆なる人なり。かつ文芸にも暗からず、五臣注の文選は此の人版行させたるとなり。詩をも作りて
 春雁吾に似たり吾雁に似たり。洛陽城裏 春に背きて帰る。
などいふ句も世に聞えけり。伏見の城にて諸大名幾らも並居たる中に、伊達政宗懐中より金銭取出して人々に見せられしに、其の頃金銭の始まりし比にて、珍しとてもてはやさる。直江が末座に有りしを、これ見られよと有りし時、直江扇の上に金銭を置きて打返し、女童の羽根つくやうにして観しかば、政宗、いや苦うも候はず、手に取られよ、と言も終わらぬに、直江、謙信の時より先陣の下知して采取り候手に、かかる賎しき物とれば穢れ候故、扇に載せて候、とて政宗のかたに投げ戻しけり。兼続父も山城守といふ。もと僧なりしが還俗して武勇を事としけり。

 直江兼続出版の『文選』は慶長12年、当時活字印刷を盛んに行っていた京都の日蓮宗要法寺から出版され、奥付に直江の名前はありませんが林羅山が「五臣註文選は米澤黄門景勝陪臣直江山城守某、要法寺にて開版」と記録しているので「直江版」とされています。
 それで気になるのは金銭を卑しむほど儒学に親しんでいたのなら直江の兜前立「愛」は愛染明王や愛宕神というより「慈愛恭敬」(『孝経』)の「愛」ではないでしょうか?。


Re: Love VS Crescent 武水しぎの - 2009/09/15(Tue) 00:13 No.858  


例によって拝読してから検索してみるにわか勉強ですが、「慈愛」は古典や仏教によく出てくるのですね。

野崎さんのカキコを読んで、愛宕や愛染さんと慈愛をかけてるのかも、と思いました。
大阪人の私にとっては愛宕は火伏と商売繁盛、愛染さんは新町の芸者さんのイメージですので、「慈愛」の方が武将にしっくりきます^^;


政宗公のうわさ 『古老茶話』から 投稿者:野崎 準 投稿日:2009/06/24(Wed) 12:22 No.809  

 『古老茶話』:国学者柏崎永以(1772没)の戦国時代から江戸時代中期までの武家事跡・逸話をあつめたもの。随筆大成六巻所収

一 兼松又四郎は長命の人にて大猷公(徳川家光)御代まで居り候。ある時・・能を見物ありし時、いかがいたしたるや伊達政宗、又四郎が側を通るとて袴腰を踏み越え候時、又四郎ながらへず政宗をとらへ、慮外千万な、士の腰を踏みこえたるとて横面をはりたる也。その時政宗莞爾と笑い、打って腹だにゐるならばいくらも打てよ犬坊よと笑い去たると云。
  
一 政宗は惣じて心底おそろしき横着者なり。それゆへ太閤にも荒立てさせず、権現様(徳川家康)にも渡りよく、身上を持ち続け来るなり。大猷公ひたもの、小菅そのほか、泊鷹野に御出候時、御前にて政宗、かならず泊鷹野は御無用に遊ばさるべきに候、私さへ三度までねらひ奉り候、と申し、げにかはとて其後泊鷹野止めたると也。これみな嘘なり。その時の老中の内存をさとり、畢竟少人数にて度々はいかがといふ所を、すぐばけ(直言)に身を落としての意見だて也。かようなるすぐばけにて、怖きおやぢと人々いひながら大猷公のこしをぬかしたる也。

一 政宗公臨終の前・・・大猷公彼宅へ成せられ候とき、義経、(藤原)秀衡に臨終御暇乞の格に仕度よし申して・・・惣領遠江守秀宗、次男陸奥守忠宗等一族の面々、錦戸和泉守(西木戸太郎国衡、和泉三郎忠衡)などになぞらへて列させ、自分は枕の元に肩衣を置きて御目見いたしたると也。無双の手者也。

一伊達左京大夫政宗臣下
 中務儀宗 遠藤山城基信 亘理美濃重宗 信達(しだち)兵庫元安 大條尾張実綱 大河内備前定綱 冨塚内蔵信綱 遠藤孫六基綱 山城基綱 伊達藤五郎成実 伊達兵九郎成重 伊達兵庫元安 桑折点了不林・俗名攝津守政長 中島伊勢長宗 北岡志摩主水 泉田安芸重元 白石若狭宗玄 原田左馬宗長 湯目刑部信康
(?↑片倉小十郎景綱が出ていない)


Re: 政宗公のうわさ 『古老茶話』から 武水しぎの - 2009/06/28(Sun) 23:59 No.813  


一番始めの逸話に思わず笑ってしまいました。政宗公はこんな感じの話が多い気がします。
お仕えするときっと胃が痛そうです。

最後の。なぜ片倉小十郎がないのでしょうね????


伊達家の名香『柴舟』を廻る噂 投稿者:野崎 準 投稿日:2009/05/20(Wed) 17:16 No.794  

翁草にいわく:
「細川三斉は武において最も世の許すところ、其余力には歌道を嗜み、父幽斉の風流にをさおさ不劣、茶道に心を寄せ、世にやさしき大将故、長崎表異国船入津の折からは彼地へ家来を遣わし珍器を求めさせらる。ひととせ興津弥五右衛門と云士に相役一人添えて差し越さるる処に、異なる伽羅の大木渡れり。元木と末木と二つあり。其のころ松平陸奥守正宗よりも唐物を得ん為役人下り居しが、彼伽羅の本末を競合て・・・(中略)・・・
 此興津が調へ来りし伽羅は類なき名香にて、三斎特に秘蔵せられ銘を初音と付けらる
 きく度に珍しければほととぎす いつも初音の心地こそすれ
の古歌によれり。寛永三年九月六日二条の御城へ主上(後水尾天皇)行幸の時・・・御所望に仍り即ち是を献ぜらる。主上叡覧ありて白菊と名付させたまふ
 たくひありと誰かはいはん末匂ふ 秋より後の白菊のはな
此歌の心とぞ。また仙台中納言政宗卿は、役人末を調へ来りしを大に残念なられしかとも、さすが名香の事なれば常に是を賞して柴船と銘せらる
 世の中の憂を身につむ柴船や たかぬ先よりこがれ行らん
此歌の心なるべし。其名とりどりながら皆心面白し・・・或いは小堀遠州の所持のよし色々異説を云人あり。皆誤なり」(神沢杜口『翁草』 巻六 当代奇覧抜粋 『随筆大成』第三期20)

 中略の部分に興津弥五右衛門が「たがが趣味の品に」と末木を買おうとした同輩を殺害してしまう話があり、明治の文豪森鴎外の『興津弥五右衛門の遺書』に脚色されて有名になりました。また加賀の前田家も入手し「一木四銘」だという伝説もあります。外様大名の文人として知られていた伊達・細川・前田と禁中をむすぶ噂で、何か意図的に流されたのではないか、という気もします。

 『伊達治家記録』寛永三年九月二六日に細川忠利への礼状を掲げ「此節公名香ヲ買求メラレ柴舟ト名付ケラル 世中ノウキヲ身ニツムノ倭歌ニ因リ玉フ。(細川)越中守ヨリ頒チ来ル香、蓋其柴舟乎。柴舟ノ香、細川殿ニテハ白菊、禁中ニテハ蘭ト名ツケ玉フ。他家ニハ初音、初雁ナドト名ツケラルト云フ」とあります。
 政宗公六十歳、京都三条塩屋町の藩邸(仙台藩京都屋敷は後に中長者町)での事でした。藩史に特記して買い上げたとあるのは、すでに京雀の間に神沢杜口が聞いていたような虚実ないまぜの噂が広まっていたのでしょう。この柴舟は宇和島伊達家や松島瑞巌寺の像内納入品として保存されています。
 ちなみに今の三条塩屋町を尋ねましたらすぐ西に香を扱うお店がありました。創業寛永三年かどうかは聞き漏らしましたが。


Re: 伊達家の名香『柴舟』を廻る噂 野崎 準 - 2009/05/22(Fri) 09:33 No.796  


追記:伊達家の京都屋敷は『伊達治家記録』の寛永三年上洛の記事に「(六月)十九日己未。辰ノ上刻京都三条塩屋町御屋形ヘ御着」とあり、ここで官位昇進の伊達安房成実よりの祝いの品を受け取ったりしています。
 江戸時代初期の屋形は現在の中京区三条通北側の塩屋町にあったようです。その後仙台藩京都屋敷はその北、下長者通中橋詰町に移動して幕末まで存在しました(難波信雄「仙台藩の京都留守居と遊歴生」日本歴史2008-8)。
 また京都の地理学の先生のブログに「政宗の屋敷は堀川一条の松之下町」とあるのを見た記憶があります。当時は何気なくメモだけしておいたのですが、地図で見ますと中橋詰町の北で、聚洛第の東北になりますから秀吉時代の屋敷の可能性があります。どういう資料によってご推察されたのでしょうか?


Re: 伊達家の名香『柴舟』を廻る噂 武水しぎの - 2009/05/30(Sat) 14:56 No.799  


遅くなって申し訳ありません!

>何か意図的に流されたのではないか

そう考えたことがなかったので、すごく面白く拝読しました。

>京都の地理学の先生のブログに「政宗の屋敷は堀川一条の松之下町」

これがすごく気になります。
http://siseki-kukan.way-nifty.com/heiankyokyoto/2008/10/post-cbe2.html
こちらですね。

口頭での研究発表のようです。



Re: 伊達家の名香『柴舟』を廻る噂 野崎 準 - 2009/06/03(Wed) 16:43 No.801  


調べている方もいるようです。
http://homepage2.nifty.com/kenkakusyoubai/juraku/map.htm
 松之下町から一条通りに出たらすぐ西が「一条戻橋」でした。伊達家文書で『伊達治家記録』にも収録されている「鈴木新兵衛書簡」(天正19年2月下旬)に、「屋形は浅野殿が若狭衆三千人を出してくれて完成しつつある。となりの山形殿(最上義光)には2〜300人しか出しておらず・・・ところで千宗易(利休)が失踪し、近くの一条戻り橋で木造が磔になっている」とあるのも聚洛屋形が聚洛第正門の前で堀川の東である一条戻橋に近い地であることを推測させます。
 ただ聚洛第の粘土で製作したので「楽焼」というのだという楽家の窯がすぐ隣にあるのですがね・・。武家屋敷の中で作っていられたのでしょうか?
 天正19年の「利休失踪」は『伊達治家記録』で書簡の後にわざわざ罪状を挙げ、失踪でなく斬首だと注記しています。
 林屋辰三郎先生の『中公日本の歴史・天下一統』には、政宗公の上洛と豊臣秀長の死去が利休切腹の引き金だった、という説を紹介されていますが、さて真相は?


Re: 伊達家の名香『柴舟』を廻る噂 野崎 準 - 2009/06/03(Wed) 16:45 No.802  


木造が → 木像が


Re: 伊達家の名香『柴舟』を廻る噂 武水しぎの - 2009/06/06(Sat) 21:44 No.806  


先日は周辺の写真をいただき、ありがとうございました!
お礼が遅くなって申し訳ありません。

御紹介のサイト、拝見しました。
一条戻り橋から御所方面へ向かうと、大名屋敷街を通り抜けていくことになるのですね。
学生時代、ときどき自転車で通学に使ったルートなので驚きです。当時知っていれば。。。


当て字は正宗公だけではない。 投稿者:野崎 準 投稿日:2009/04/08(Wed) 11:47 No.777  

『豊臣記』続群書類従
小田原攻 「奥州ノ伊達正宗、越後従リ甲州ヲ経て此ニ来タリ秀吉公ヘ謁ヲ請フ。禿髪異体ニシテ一騎来会シテ言上ス。秀吉曰ク『我諸軍ヲ率テ此ヲ攻ムルハ北条ノ罪ヲ問フナリ。然レハ上杉景勝、佐竹義重 馳聘使輸懇誠。汝独人然ラズ。征伐関東ノ後奥州モ征討セン。然ハ汝ノ侵セル所ノ会津仙道早ク返上スベシ。米沢三十万石元ノ如ク宛行セン』云々。正宗コレニ随フ。秀吉公彼カ勇ニ感ジ赦免シテ盡懇。暇ヲ賜テ国ニへ返ス。・・・・

大崎葛西一揆 「(伊達)重實、片倉二本松(浅野長吉)ニ来タリ・・・重実、(国分)盛重両人を(蒲生氏郷の)人質トス」

 伊達成實君も当て字になっています。同時代史料に「重實」になっているのがあるでしょうか?


Re: 当て字は正宗公だけではない。 武水しぎの - 2009/04/09(Thu) 01:08 No.779  


「重実」の当て字はよく見ますが、同時代資料では覚えがありません。
「真元」は大日本史料の伊達家文書と、ブログで書いた伝授書群にありました。むかぁしに実元の解説で「はじめ直元」としてあるものを見ましたが、今思えば「真」と「直」の読み間違いかも、という気もします。今は「はじめ真元」と書いてあるのをときどき見ます。
同時代資料の署名が「真元」なのですが、伊達家の子息としては違和感を覚える名前ですよね。。。

まったく自分の印象だけですが、実際直接文書のやりとりをする人は名前の字に気を遣うのでしょうが、伝聞のみでしか書かない人はおおらかなのでは、という気がしています。


独眼魚の科学的研究があった 投稿者:野崎 準 投稿日:2009/03/24(Tue) 11:01 No.774  

 元祖「お魚博士」の末広恭雄教授(1904-88)の名著『魚と伝説』(昭和39年 新潮社)に「片目魚」の章があり、柳田國男『一つ目小僧その他』などを引いて全国に片目の魚の伝説があることを説明、ご自身でも採集された片目魚伝説地28箇所を上げておられます。この表には「福島県信夫郡余目村南矢野目(福島市笹谷の片目清水だとしたら信夫山とは別)」や鎌倉権五郎伝説の多い秋田県の例もありますが、仙台瑞鳳殿のものは漏れています。
 末広先生はこの伝説地を検討され、「片目魚の出現する場所は池であり、他の池から移した魚も片目になり、そこから出した魚は片目が治る、と言われている。それから考えると、湧水中に窒素ガスが多い池に住む魚は血液中に入ったガスが目のような柔らかい部分で気泡になる、いわゆる“ガス病”を起すので、それが片目のように見えるのではないか(要旨)」と言っておられました。
 実証的研究の結果は明確に書いておられないのですが、俗説は俗説と夢を壊さないように言及をさけておられたようにも見えます。


Re: 独眼魚の科学的研究があった 武水しぎの - 2009/03/29(Sun) 00:42 No.775  


片目魚を検索して分布の広さに驚きましたが、科学的な考証があったことにも驚きです。ご紹介ありがとうございます!

「池から出すと片目でなくなる」ほうの話は知りませんでしたが、本当にその現象が観察されるなら環境要因ですものね。
目に病変が現れるのは症状末期と聞きますので、池での魚の繁殖が危ぶまれる気もしますが、確かに言及するのは野暮でしょう。

あああでもつっこみたくなる私は関西人……orz


Re: 独眼魚の科学的研究があった 野崎 準 - 2009/03/29(Sun) 10:05 No.776  


末広先生は『魚と伝説』中に、徳川家康が興津の鯛や江戸の白魚を好んだ話を語られたあとで「家康は決して伊達政宗のような味の分らなかった人ではない」と聞き捨てならない事を書いておられます。政宗公が京の町衆に、室町幕府の京風料理の味が分らなかった織田信長のようにあしらわれたエピソードがあるのでしょうか。


無題 投稿者:ゥミンチュ 投稿日:2008/06/09(Mon) 20:06 No.708  

平安時代のことについて教えてください

藤原氏はどうして強い権利をもてたのか・・・

平安時代の貴族達はどのような暮らしだったのか・・・・

教えてください。


Re: 無題 野崎 - 2008/11/19(Wed) 20:52 No.731  


『国文学・解釈と教材の研究』昭和51年6月号、特集・京都(学燈社)が大きな図書館にはあると思いますが、この中の中村真一郎・角田文衛の対談が平安時代の略史、文化、風俗などについて簡明かつ正確な分り易い解説です。一読をおすすめします。
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