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疾風十一騎 投稿者:野崎 準 投稿日:2017/05/19(Fri) 20:11 No.3263  

「信長甲州に攻め入れし比、秀吉は筑前守とて、西国毛利家に向て、甲州の軍に従はず。勝頼死して甲州平均なりといふを聞き、秀吉大息ついて、『あたら人を殺したる事の残り多さよ。我軍中にあるならば、しひて諫め申して。勝頼に甲越二州をあたへて関東の先陣としたらんに。東国は平押しにすべきに』とくりかへし悔やまれけり」(常山紀談)
 東国の騎馬隊の威力を西国大名が恐れていたことを示す話です。

 大阪夏の陣で真田信繁方に「上穂(うわぶ)十一騎」がいたと長野県駒ケ根市では伝えています。同地の武将千村家の騎士、駒ヶ岳大弐坊、春日昌光、小林義国ら十一人が真田に加わり「道明寺口で伊達政宗と戦った」と伝えていました。長野県南の大寺、駒ケ根市光前寺に慰霊碑(明治時代)があります。この付近は諏訪氏など甲州騎馬隊の本場でしたから、この伝説は武田の騎馬隊が奥州の騎兵と激突した唯一最後の戦いだったのかも知れません。



Re: 疾風十一騎 武水しぎの - 2017/06/03(Sat) 21:50 No.3265  


お教えありがとうございます。
武田の騎兵と伊達の騎兵が大坂で激突する、というのも不思議なめぐりあわせですね。。。


Re: 疾風十一騎 野崎 準 - 2017/06/12(Mon) 21:30 No.3266  


 道明寺の戦いで、大坂方の歩兵を蹴散らし破竹の勢いだった伊達の奥州騎馬隊を押しとどめたのは旧武田家臣で騎馬の扱いを心得ていた真田幸村、というのは諸書の記述から納得できますが、槍をもつ歩兵だけで伊達軍の先鋒を七八町押し返したとあるのが不審でした。もし少数と言え真田軍にも精鋭の騎馬隊がいたとすれば納得がいきます。

伝承とはいえ大坂方最後の攻勢にこの「上穂十一騎」がいたとすれば、長篠の戦い以後声なしだった武田騎馬隊の最後の栄光。駒ケ根市の方々も「同時代史料に無い、後世の捏造」と無下に抹消せず、語り伝えていてくれたのは有難い事と思います。最後の武田騎馬隊、上穂十一騎よ、安らかに。


能『千引』は多賀城の話 投稿者:野ア 準 投稿日:2017/03/16(Thu) 18:43 No.3260  

 宮城県多賀城市の史跡多賀城跡の西よりに「志引」という地名があります。多賀城南門近くの重文「多賀城碑」と関係する地名です。

 『室町時代物語大成』(角川書店)に『つぼの碑』という物語が載っています。「むかし陸奥の国府のあるけふの郡に巨石があった。坂上田村麻呂が悪路王を討伐した時に矢筈で日本中央と刻んだ石である。つぼの碑と呼ばれて信仰を集めていたが・長い時間の後祟りをなす様にもなり、守護の甲斐の某は石を運び去り破壊しようと決めた。郡内の人々千人を集めて縄をかけて引いたが巨石は動かせない。付近の娘の所に貴人があらわれ、自分はこの石の精だが汝は正直なのでお前が一人で引けば動くようにしてやる、と告げた。娘が申し出て綱を引くと千人で引いても動かなかった岩は坂を下る車、棹で操る船の如く自由に動いた。娘の話を聞いた守護は娘の正直に感じて大いに褒美を与え、裕福になった娘は僧を集めて破壊された巨石を供養した・・・」という話です。

 有名な話らしく、多賀城の地誌には「千引がなまって志引という字名になった」とされています。能にもこの物語を脚色した『千引』が宝生流にあるそうです。

 江戸時代に大日本史編纂のため水戸光圀公から「この石は今どうなっておるか?」と聞かれた伊達綱村公が宮城郡内を全面発掘して発見したのが「多賀城碑」だといわれており、江戸時代からこの碑が伝説の「壺の碑」なのかいろいろな論争がありました。今は歌枕の「壺の碑」は青森県上北郡の都母にあった碑で多賀城の碑とは違う、ということになっています。多賀城の発掘も続いていますが破壊された石碑が出土したという話も聞きません。

 みちのくの奥ゆかしくぞ思はるる つぼのいしぶみ外の浜風 西行


Re: 能『千引』は多賀城の話 武水しぎの - 2017/03/20(Mon) 22:17 No.3261  


「千引の石」の説話は聞いたことがありますが、多賀城とは知りませんでした!
何カ所か比定地があるようですね。
宝生流の「千引」は明治に廃曲になりましたが、復曲もされているようです。


Re: 能『千引』は多賀城の話 野ア 準 - 2017/03/21(Tue) 06:30 No.3262  


旧南部領で今は青森県上北郡内にある千曳神社の伝承は『御邦内郷村誌』という南部盛岡藩の地誌に出ており:ご神体の石の精が村の娘「壺」に語り、石は神社の地下に埋められ「壺の石」と呼ばれたとなっていました。青森県の民俗研究者は近くの「つぼの碑」伝承と混同された話だとしています。

多賀城市志引の伝説は仙台市岩切の千曳の巨岩を娘がここまで飛ばした。娘は観音の化身だったと更に脚色されて伝わっているようです。一番古いのが室町時代の『つぼの碑』で、伝わったそれぞれの地で地元の物語を加えられたのでしょうか。


伊達実元の城 投稿者:野崎 準 投稿日:2016/11/23(Wed) 17:05 No.3253  

『信達一統志』鼓岡邨 八丁目と相並びて北の方なり。

 西館 花街の西にあり。本丸跡竪三十間横二十間なり。天正年中芦野修理之亮家臣堀越能登守居住せり。案内記に云う。伊達左京大夫輝宗の臣清野備前守其子遠江守居住す。其の後に堀越能登守居るとなむ。信達古語に清野遠江守その君輝宗に背けり。その罪によりて西館において生害す。其あとに堀越能登守居住せり。堀越また二本松畠山義継に同意す。輝宗怒りて伊達藤五郎成実を以て攻めしむ。堀越遂に利を失ひて生害す。是より成実住居すと云。伊達鑑に大善太夫晴宗の舎弟兵庫頭基実隠居すとなむ。基実は成実の父なり。


信達にも青麻神社 投稿者:野崎 準 投稿日:2016/11/20(Sun) 18:18 No.3250  

 昭和59年の仙台市野草園のガイドブックに野鳥の鳴き声として、ホトトギスの「東京都特許許可局」やセンダイムシクイの「焼酎一杯ぐぃーっ」などを紹介していました。その中に「サンコウチョウは『ツキヒホシ ホイホイホイ』と鳴く」とありましたが、この「聞きなし」は岩切青麻神社の「月日星」です。

『信達一統志』宮城村の章に
「青麻宮 山王の宮前に安置す。近世仙台より移し奉る。抑々此神は三后光と申して則日月星を祭れるよし。一説に三后光は源義経・武蔵坊弁慶・常陸坊海尊の三人を祭る者と云。愚(著者志田正徳)按ずるに日月星の三光に右三将を合わせ祭る者なるべし、。世人中風の病を免むことを祈れり。其霊験あり。祈人鰯を食せず。六月十八日祭礼なり」
とあります。

 ここは現福島市宮代の日枝山王神社で末社に青麻神社が現存しているようです。
真田丸伝承地にも勧請されたのですから高血圧には効くのでしょう。



信夫郡大森城と成実君 投稿者:野崎 準 投稿日:2016/11/19(Sat) 18:23 No.3247  

福島市大森城

『信達一統志』
「城山 一名鷹峯城、一名白鳥城ともいへり。初め木邨伊勢守重次居住す。天正年中福島に移る。其後伊達兵庫頭基実居る。此人は伊達晴宗の弟也。後に八丁目邨西館に隠居し嫡子藤五郎成実居住せり。此人仙台亘理に移る。後公邨となる。慶長年中上杉家の封邑となる。上杉家米沢に移る。又公邑となる。其陣屋今の大森邨にあり。御代官岡田君初めて支配す。後に二本松侯の寄地となる。又会津侯寄地となる。・・・・信達歌に信夫の森と云あり。案ずるに…此の山を信夫森と云こと疑なかるべし。

いづくより吹来る風の散らしけむ 誰もしのぶの森の紅葉 隆房」

渡利邨
「高林寺 禅宗 山の麓にあり。伊達阿波(ママ)守殿息女豊姫建立なり。【伊達阿波守と云人は天正年中の人なり。然るに豊姫は此人の息女とある。疑はし。是は伊達兵庫頭息女なるべし。左あれば阿波守と兄弟なるか、何とも伝の誤なるべし】。開山導師は観高明察和尚なり。初、豊姫陽林寺二世舜爽和尚に帰依し天文十年辛丑五月二日初建立す。寺記に見えたり」。



Re: 信夫郡大森城と成実君 野崎 準 - 2016/11/19(Sat) 21:23 No.3248  


豊姫の話と墓の話はずっと昔にブログで紹介されていたと思います。
 「成実でなく基実の娘」、という説を紹介されていましたが、その後どうなっているのでしょうか?


日本仙台桜田本『孫子』 投稿者:野ア 準 投稿日:2016/06/23(Thu) 21:16 No.3242  

 図書館で金谷修『新訂 孫子』を読みました。中国銀雀山の竹簡孫子の全貌が発表されてその成果を取り入れた新訂本です。

 中国春秋時代の軍学書『孫子』は三国時代に魏の曹操(武帝)が注釈した『魏武注孫子』が基本テキストで、その宋版をもとにした清の「平津館本」が研究に使われています。

 それに対し仙台藩の儒学者桜田家に「魏武注より古い」と称する「古文孫子」が伝えられています。幕末になって「古文孝経」のように中国では散逸し日本にだけ残っているテキストだと考証学者に注意され、嘉永五年(1852)に斎美館から桜田景迪(けいてき・良佐1797-1876)により出版されています。金谷先生は「桜田氏により改められたかと思えるところも少なくないが…古い根拠のあることを思わせる異同も見いだせる」として諸所に「桜田本では」と注を入れておられます。中国で銀雀山孫子が報告された時にも「日本仙台桜田本」として引用されていたのを記憶します。

『孫子』は本当に春秋時代の呉の孫武が書いたのか?戦国時代の記述と思われる部分があるから戦国時代斉の孫賓の書ではないか、と論じられていましたが、銀雀山孫子の解読でほぼ孫武の著作で間違いないとなったようです。古来問題になっているのは『史記』に「13篇」となっており、魏武注孫子以下の『孫子』はこの13篇を3巻に分けていますが、『隋書』経籍志と、日本最古の書籍目録である『日本現在書目』は2巻に分けており、桜田本がその二巻本の体裁を持っている事です。あるいは隋唐時代のテキストが奈良・平安時代の日本の国博士のもとにもたらされ、伝世した物かとも言われています。
 
 桜田良佐は清川八郎との交際や幕末仙台藩での活躍でも知られていますが、仙台藩の学問には遊佐木斉とその一派、養賢堂と大槻氏などの他にこのような伝統もあった事を忘れてはいけないと思います。


有楽斎と逢いましょう 投稿者:野ア 準 投稿日:2016/05/09(Mon) 11:29 No.3239  

 愛知県犬山市に行き、有楽苑の国宝茶室「如庵」を見てきました。

 有楽苑のガイドブックに如庵を建てた織田有楽斉長益の伝記があり、年表に
元和四年 (建仁寺)正伝院の一隅に如庵を営む
元和五年 伊達政宗を招き茶会を催す
元和七年 没す。法号正伝院殿如庵有楽大居士。

とありました。
 
 『伊達治家記録』には元和五年(1619)の政宗公上洛の時「織田侍従入道殿有楽」に茶を所望し受取りの礼状を出した事(8月22日)、織田有楽老へ御饗応として御出(9月7日)、池田長幸を饗応した時「織田有楽老」が陪席していた事(9月10日)が見られます。貞山公にゆかりのありそうな茶室とは、と俄然視点が変わってきました。
 茶会記などは残っていないのでしょうか。


伝・真田丸跡に仙台の神社が 投稿者:野ア 準 投稿日:2016/03/22(Tue) 09:52 No.3233  

 調査見学のついでに大阪市天王寺区玉造の三光神社を訪問しました。真田丸伝承地の一つで、神域内に「真田の抜け穴」があり、真田幸村(信繁)の銅像もあります。

 ただし実際は「宰相山」という地名で、真田丸と対峙した加賀宰相の陣、付近に他にもあったという「真田の抜け穴」は徳川方が掘った大坂城攻撃用のトンネルでは、とされていますが。

 三光神社の由緒を見ましたら「元は日月神社、あるいは姫宮と言ったが、明治に中風に験ありという陸奥(青森)の三光神社を勧請し三光神社となった」とありました。

 陸奥でも三光神社は陸前、それも伊達領の仙台市宮城野区岩切にある青麻(あおそ)神社のことです。日月星の三光(天照大神・月読命・天御中主命。本地仏は大日・不動・虚空蔵)を祭り、人魚の肉を食べて不死身となった修験僧清悦、実は義経の家来常陸坊海尊の中風除けの祈祷を伝えた神社です。

 これも真田と伊達の妙な縁ですね。


Re: 伝・真田丸跡に仙台の神社が 武水しぎの - 2016/03/26(Sat) 21:03 No.3234  


三光神社は数年前に行きましたが、そんな由来があったとは!
岩切の青麻神社が総本社なのですね。
岩切・利府はぜひ行ってみたいので、その時に行ってみます!


Re: 伝・真田丸跡に仙台の神社が 野ア 準 - 2016/03/27(Sun) 22:34 No.3236  


 仙台藩政初期に現れ「人魚の肉を食べて不死身」と称したと言う修験者「清悦」については村田邑主伊達宗高の小姓小野太左衛門の聞き書き『清悦物語』なる文献があり、市町村史の近世物語などに活字化されているものなど異本が複数あります。

 青麻神社の社伝では清悦は源義経の家来常陸坊海尊その人とされています。八百比丘尼ならぬ八百比丘(男子の出家者)です。

『清悦物語』の内容は藤原秀衡没後の平泉政権の内幕、義経の最後、厚樫山での戦記などで、歴史を学んだ者には眉唾とすぐ分かりますが、異伝の戦国時代の話、切支丹の話などは他に史料がなく、根拠のある伝説が入っているかも、という研究者もいます。

 伊達宗高は例の「蔵王火山の噴火を止めた、若死にしたのはその生贄」と言われた人で、亡命明人の王翼とも関係していた人ですから、物語の成立には中国の神仙思想などが入っているのかも知れません。


飛加見の黄金 未刊謡曲衆から 投稿者:野ア 準 投稿日:2016/01/04(Mon) 17:05 No.3225  

『未刊謡曲集』「二「飛加見」(古典文庫204)
 陸奥守藤原のかげみ(景躬)が飛加見(ひかみ)川の中に巨大な黄金の玉を見つけ、都に報告の途中、陸奥より黄金が出る、という近江志賀の観音(石山観音)の霊告を受けた聖武天皇からの勅使に会い、観音より受けた征矢を持って飛加見川に戻る。

 ワキ「其の時がげみは川辺に立寄り重藤の弓に件の征矢をつがい光の真中よっぴいてひゃうと射る。
後シテ(竜神)「「こはそも何者ぞ、竜宮の御調を留め給ふぞと怒をなしてぞ立たりける。不思議や浪間に声ありて、不思議や浪間に声ありて、黄金守護のありとは知らずやと夕波を蹴立かげみに向かひ勢だし あたりをはらふばかりなり。
ワキ「かげみは少しも騒がずして 汝知らずや我君は三国無双の金銅の如来を建立し給ふ。其の為に射止むるところなり。早退けと宣へば 竜神は畏り、是竜宮の御調なれども勅に従ひ申すなりと、波かき分けて黄金をとり出し。勅(使)に捧げ奉れば、即ち是を見給ふに彼の矢は金を射透しければ、金とどめの征矢と名付けつつ 其数二万五千の黄金を守護し都をさして帰り給へば、竜神は立くる波を蹴立、遥の川瀬に浮き沈み、遥の川瀬に浮き沈み 又竜宮にぞ帰りける

○飛加見(異伝に「氷上」)は日高見で、天平の産金は北上川から出た、とされています。
砂金が取れたのは宮城県遠田郡涌谷町で、黄金迫を流れる川は江合川に合流しますから、古代は北上川の支流ではなかったはずですが。北上川沿いの砂金が盛んに採集されるのは平泉時代からです。
○竜神が黄金を守る、はジークフリート伝説の、ラインの黄金を守る竜を思い出させますが、「勅なればいとも畏し」とすなおに帰ってしまうのは物足りません。
○もう一つ気になるのは武田信玄の忍者「飛加当」で、「トビカトウ=ジャンプのうまい加藤」、でなく「ヒカト」とか、この謡曲と関係する名前だったのかなと。


Re: 飛加見の黄金 未刊謡曲衆から 武水しぎの - 2016/03/26(Sat) 21:13 No.3235  


ジークフリート!
 飛加藤!
黄金と龍、というか、鉱山と川と龍(大蛇)の組み合わせかな、とも思いました。

それにしても素直な龍神さま…
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