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フヒヒwwサーセンwwwwww 投稿者:もふぅっ 投稿日:2009/07/04(Sat) 16:24 No.819  

セックルまじヤバイ!!
しかも生ヌプしてそのまま出しちゃったよww
http://ikisugi.com/1d0/xtkhmpd


割り切り募集です! 投稿者:みお 投稿日:2009/07/04(Sat) 02:02 No.818  

最近仕事に疲れてしまって…新しい出会いを探しています。 a-cha-lf@docomo.ne.jpとりあえずメールからお願いします。


政宗公のうわさ 『古老茶話』から 投稿者:野崎 準 投稿日:2009/06/24(Wed) 12:22 No.809  

 『古老茶話』:国学者柏崎永以(1772没)の戦国時代から江戸時代中期までの武家事跡・逸話をあつめたもの。随筆大成六巻所収

一 兼松又四郎は長命の人にて大猷公(徳川家光)御代まで居り候。ある時・・能を見物ありし時、いかがいたしたるや伊達政宗、又四郎が側を通るとて袴腰を踏み越え候時、又四郎ながらへず政宗をとらへ、慮外千万な、士の腰を踏みこえたるとて横面をはりたる也。その時政宗莞爾と笑い、打って腹だにゐるならばいくらも打てよ犬坊よと笑い去たると云。
  
一 政宗は惣じて心底おそろしき横着者なり。それゆへ太閤にも荒立てさせず、権現様(徳川家康)にも渡りよく、身上を持ち続け来るなり。大猷公ひたもの、小菅そのほか、泊鷹野に御出候時、御前にて政宗、かならず泊鷹野は御無用に遊ばさるべきに候、私さへ三度までねらひ奉り候、と申し、げにかはとて其後泊鷹野止めたると也。これみな嘘なり。その時の老中の内存をさとり、畢竟少人数にて度々はいかがといふ所を、すぐばけ(直言)に身を落としての意見だて也。かようなるすぐばけにて、怖きおやぢと人々いひながら大猷公のこしをぬかしたる也。

一 政宗公臨終の前・・・大猷公彼宅へ成せられ候とき、義経、(藤原)秀衡に臨終御暇乞の格に仕度よし申して・・・惣領遠江守秀宗、次男陸奥守忠宗等一族の面々、錦戸和泉守(西木戸太郎国衡、和泉三郎忠衡)などになぞらへて列させ、自分は枕の元に肩衣を置きて御目見いたしたると也。無双の手者也。

一伊達左京大夫政宗臣下
 中務儀宗 遠藤山城基信 亘理美濃重宗 信達(しだち)兵庫元安 大條尾張実綱 大河内備前定綱 冨塚内蔵信綱 遠藤孫六基綱 山城基綱 伊達藤五郎成実 伊達兵九郎成重 伊達兵庫元安 桑折点了不林・俗名攝津守政長 中島伊勢長宗 北岡志摩主水 泉田安芸重元 白石若狭宗玄 原田左馬宗長 湯目刑部信康
(?↑片倉小十郎景綱が出ていない)


Re: 政宗公のうわさ 『古老茶話』から 武水しぎの - 2009/06/28(Sun) 23:59 No.813  


一番始めの逸話に思わず笑ってしまいました。政宗公はこんな感じの話が多い気がします。
お仕えするときっと胃が痛そうです。

最後の。なぜ片倉小十郎がないのでしょうね????


伊達家の名香『柴舟』を廻る噂 投稿者:野崎 準 投稿日:2009/05/20(Wed) 17:16 No.794  

翁草にいわく:
「細川三斉は武において最も世の許すところ、其余力には歌道を嗜み、父幽斉の風流にをさおさ不劣、茶道に心を寄せ、世にやさしき大将故、長崎表異国船入津の折からは彼地へ家来を遣わし珍器を求めさせらる。ひととせ興津弥五右衛門と云士に相役一人添えて差し越さるる処に、異なる伽羅の大木渡れり。元木と末木と二つあり。其のころ松平陸奥守正宗よりも唐物を得ん為役人下り居しが、彼伽羅の本末を競合て・・・(中略)・・・
 此興津が調へ来りし伽羅は類なき名香にて、三斎特に秘蔵せられ銘を初音と付けらる
 きく度に珍しければほととぎす いつも初音の心地こそすれ
の古歌によれり。寛永三年九月六日二条の御城へ主上(後水尾天皇)行幸の時・・・御所望に仍り即ち是を献ぜらる。主上叡覧ありて白菊と名付させたまふ
 たくひありと誰かはいはん末匂ふ 秋より後の白菊のはな
此歌の心とぞ。また仙台中納言政宗卿は、役人末を調へ来りしを大に残念なられしかとも、さすが名香の事なれば常に是を賞して柴船と銘せらる
 世の中の憂を身につむ柴船や たかぬ先よりこがれ行らん
此歌の心なるべし。其名とりどりながら皆心面白し・・・或いは小堀遠州の所持のよし色々異説を云人あり。皆誤なり」(神沢杜口『翁草』 巻六 当代奇覧抜粋 『随筆大成』第三期20)

 中略の部分に興津弥五右衛門が「たがが趣味の品に」と末木を買おうとした同輩を殺害してしまう話があり、明治の文豪森鴎外の『興津弥五右衛門の遺書』に脚色されて有名になりました。また加賀の前田家も入手し「一木四銘」だという伝説もあります。外様大名の文人として知られていた伊達・細川・前田と禁中をむすぶ噂で、何か意図的に流されたのではないか、という気もします。

 『伊達治家記録』寛永三年九月二六日に細川忠利への礼状を掲げ「此節公名香ヲ買求メラレ柴舟ト名付ケラル 世中ノウキヲ身ニツムノ倭歌ニ因リ玉フ。(細川)越中守ヨリ頒チ来ル香、蓋其柴舟乎。柴舟ノ香、細川殿ニテハ白菊、禁中ニテハ蘭ト名ツケ玉フ。他家ニハ初音、初雁ナドト名ツケラルト云フ」とあります。
 政宗公六十歳、京都三条塩屋町の藩邸(仙台藩京都屋敷は後に中長者町)での事でした。藩史に特記して買い上げたとあるのは、すでに京雀の間に神沢杜口が聞いていたような虚実ないまぜの噂が広まっていたのでしょう。この柴舟は宇和島伊達家や松島瑞巌寺の像内納入品として保存されています。
 ちなみに今の三条塩屋町を尋ねましたらすぐ西に香を扱うお店がありました。創業寛永三年かどうかは聞き漏らしましたが。


Re: 伊達家の名香『柴舟』を廻る噂 野崎 準 - 2009/05/22(Fri) 09:33 No.796  


追記:伊達家の京都屋敷は『伊達治家記録』の寛永三年上洛の記事に「(六月)十九日己未。辰ノ上刻京都三条塩屋町御屋形ヘ御着」とあり、ここで官位昇進の伊達安房成実よりの祝いの品を受け取ったりしています。
 江戸時代初期の屋形は現在の中京区三条通北側の塩屋町にあったようです。その後仙台藩京都屋敷はその北、下長者通中橋詰町に移動して幕末まで存在しました(難波信雄「仙台藩の京都留守居と遊歴生」日本歴史2008-8)。
 また京都の地理学の先生のブログに「政宗の屋敷は堀川一条の松之下町」とあるのを見た記憶があります。当時は何気なくメモだけしておいたのですが、地図で見ますと中橋詰町の北で、聚洛第の東北になりますから秀吉時代の屋敷の可能性があります。どういう資料によってご推察されたのでしょうか?


Re: 伊達家の名香『柴舟』を廻る噂 武水しぎの - 2009/05/30(Sat) 14:56 No.799  


遅くなって申し訳ありません!

>何か意図的に流されたのではないか

そう考えたことがなかったので、すごく面白く拝読しました。

>京都の地理学の先生のブログに「政宗の屋敷は堀川一条の松之下町」

これがすごく気になります。
http://siseki-kukan.way-nifty.com/heiankyokyoto/2008/10/post-cbe2.html
こちらですね。

口頭での研究発表のようです。



Re: 伊達家の名香『柴舟』を廻る噂 野崎 準 - 2009/06/03(Wed) 16:43 No.801  


調べている方もいるようです。
http://homepage2.nifty.com/kenkakusyoubai/juraku/map.htm
 松之下町から一条通りに出たらすぐ西が「一条戻橋」でした。伊達家文書で『伊達治家記録』にも収録されている「鈴木新兵衛書簡」(天正19年2月下旬)に、「屋形は浅野殿が若狭衆三千人を出してくれて完成しつつある。となりの山形殿(最上義光)には2〜300人しか出しておらず・・・ところで千宗易(利休)が失踪し、近くの一条戻り橋で木造が磔になっている」とあるのも聚洛屋形が聚洛第正門の前で堀川の東である一条戻橋に近い地であることを推測させます。
 ただ聚洛第の粘土で製作したので「楽焼」というのだという楽家の窯がすぐ隣にあるのですがね・・。武家屋敷の中で作っていられたのでしょうか?
 天正19年の「利休失踪」は『伊達治家記録』で書簡の後にわざわざ罪状を挙げ、失踪でなく斬首だと注記しています。
 林屋辰三郎先生の『中公日本の歴史・天下一統』には、政宗公の上洛と豊臣秀長の死去が利休切腹の引き金だった、という説を紹介されていますが、さて真相は?


Re: 伊達家の名香『柴舟』を廻る噂 野崎 準 - 2009/06/03(Wed) 16:45 No.802  


木造が → 木像が


Re: 伊達家の名香『柴舟』を廻る噂 武水しぎの - 2009/06/06(Sat) 21:44 No.806  


先日は周辺の写真をいただき、ありがとうございました!
お礼が遅くなって申し訳ありません。

御紹介のサイト、拝見しました。
一条戻り橋から御所方面へ向かうと、大名屋敷街を通り抜けていくことになるのですね。
学生時代、ときどき自転車で通学に使ったルートなので驚きです。当時知っていれば。。。


当て字は正宗公だけではない。 投稿者:野崎 準 投稿日:2009/04/08(Wed) 11:47 No.777  

『豊臣記』続群書類従
小田原攻 「奥州ノ伊達正宗、越後従リ甲州ヲ経て此ニ来タリ秀吉公ヘ謁ヲ請フ。禿髪異体ニシテ一騎来会シテ言上ス。秀吉曰ク『我諸軍ヲ率テ此ヲ攻ムルハ北条ノ罪ヲ問フナリ。然レハ上杉景勝、佐竹義重 馳聘使輸懇誠。汝独人然ラズ。征伐関東ノ後奥州モ征討セン。然ハ汝ノ侵セル所ノ会津仙道早ク返上スベシ。米沢三十万石元ノ如ク宛行セン』云々。正宗コレニ随フ。秀吉公彼カ勇ニ感ジ赦免シテ盡懇。暇ヲ賜テ国ニへ返ス。・・・・

大崎葛西一揆 「(伊達)重實、片倉二本松(浅野長吉)ニ来タリ・・・重実、(国分)盛重両人を(蒲生氏郷の)人質トス」

 伊達成實君も当て字になっています。同時代史料に「重實」になっているのがあるでしょうか?


Re: 当て字は正宗公だけではない。 武水しぎの - 2009/04/09(Thu) 01:08 No.779  


「重実」の当て字はよく見ますが、同時代資料では覚えがありません。
「真元」は大日本史料の伊達家文書と、ブログで書いた伝授書群にありました。むかぁしに実元の解説で「はじめ直元」としてあるものを見ましたが、今思えば「真」と「直」の読み間違いかも、という気もします。今は「はじめ真元」と書いてあるのをときどき見ます。
同時代資料の署名が「真元」なのですが、伊達家の子息としては違和感を覚える名前ですよね。。。

まったく自分の印象だけですが、実際直接文書のやりとりをする人は名前の字に気を遣うのでしょうが、伝聞のみでしか書かない人はおおらかなのでは、という気がしています。


独眼魚の科学的研究があった 投稿者:野崎 準 投稿日:2009/03/24(Tue) 11:01 No.774  

 元祖「お魚博士」の末広恭雄教授(1904-88)の名著『魚と伝説』(昭和39年 新潮社)に「片目魚」の章があり、柳田國男『一つ目小僧その他』などを引いて全国に片目の魚の伝説があることを説明、ご自身でも採集された片目魚伝説地28箇所を上げておられます。この表には「福島県信夫郡余目村南矢野目(福島市笹谷の片目清水だとしたら信夫山とは別)」や鎌倉権五郎伝説の多い秋田県の例もありますが、仙台瑞鳳殿のものは漏れています。
 末広先生はこの伝説地を検討され、「片目魚の出現する場所は池であり、他の池から移した魚も片目になり、そこから出した魚は片目が治る、と言われている。それから考えると、湧水中に窒素ガスが多い池に住む魚は血液中に入ったガスが目のような柔らかい部分で気泡になる、いわゆる“ガス病”を起すので、それが片目のように見えるのではないか(要旨)」と言っておられました。
 実証的研究の結果は明確に書いておられないのですが、俗説は俗説と夢を壊さないように言及をさけておられたようにも見えます。


Re: 独眼魚の科学的研究があった 武水しぎの - 2009/03/29(Sun) 00:42 No.775  


片目魚を検索して分布の広さに驚きましたが、科学的な考証があったことにも驚きです。ご紹介ありがとうございます!

「池から出すと片目でなくなる」ほうの話は知りませんでしたが、本当にその現象が観察されるなら環境要因ですものね。
目に病変が現れるのは症状末期と聞きますので、池での魚の繁殖が危ぶまれる気もしますが、確かに言及するのは野暮でしょう。

あああでもつっこみたくなる私は関西人……orz


Re: 独眼魚の科学的研究があった 野崎 準 - 2009/03/29(Sun) 10:05 No.776  


末広先生は『魚と伝説』中に、徳川家康が興津の鯛や江戸の白魚を好んだ話を語られたあとで「家康は決して伊達政宗のような味の分らなかった人ではない」と聞き捨てならない事を書いておられます。政宗公が京の町衆に、室町幕府の京風料理の味が分らなかった織田信長のようにあしらわれたエピソードがあるのでしょうか。


無題 投稿者:ゥミンチュ 投稿日:2008/06/09(Mon) 20:06 No.708  

平安時代のことについて教えてください

藤原氏はどうして強い権利をもてたのか・・・

平安時代の貴族達はどのような暮らしだったのか・・・・

教えてください。


Re: 無題 野崎 - 2008/11/19(Wed) 20:52 No.731  


『国文学・解釈と教材の研究』昭和51年6月号、特集・京都(学燈社)が大きな図書館にはあると思いますが、この中の中村真一郎・角田文衛の対談が平安時代の略史、文化、風俗などについて簡明かつ正確な分り易い解説です。一読をおすすめします。


月夜畑の戦いって? 投稿者:琴舗 投稿日:2008/11/05(Wed) 02:47 No.727  

はじめましてカラバです。
相馬と伊達による関が原後の動きのひとつに
月夜畑の戦いってのがあるらしいのですが
出典が分からず困ってます。
もしや絶版の奥相茶話記に載ってるんでしょうか。


Re: 月夜畑の戦いって? 野崎 準 - 2008/11/08(Sat) 16:06 No.729  


 『福島県史料叢書』下巻所収の「奥相茶話記」巻9に出ています。『奥羽永慶軍記』にはありません。月夜畑城は安達郡東和町の戸沢館のようですが、福島県の城郭史では『館基考』の引用程度であまりはっきり書いていませんね。相馬にとっては黒歴史だからでしょうか。


Re: 月夜畑の戦いって? 野崎 - 2008/11/08(Sat) 21:08 No.730  


×『福島県史料叢書』→○『岩磐史料叢書』上・中・下三巻 歴史図書社復刻本、昭和47年。これは福島県の古書店では時々見かけますが。


宮城県丸森町の伊達成実城館伝承地 投稿者:野崎 準 投稿日:2008/09/08(Mon) 18:45 No.713  

宮城県丸森町教育委員会他編『丸森町の城と館』昭和55年 より
大内西山館跡
場所:丸森町大内伊手字北伊手
○仙台領古城書立之覚 「西山城 東西六十六間、南北六十間 三千九百六十坪
 右此城ハ右(伊達氏)之(相馬)長門守ト取合之時分伊達安房成実陣取申候仮屋之跡ニ御座候。右之成実伊達稙宗四男伊東実元也。当代伊達千代松曽祖父ニ御座候」

○安永風土記御用書出「冥加山ノ内西山館 高六丈余 南北五十四間余東西二十間余
 先年相馬御取合之節亘理御地頭安房様御先祖伊達安房様成実御陣場之由申伝候。但二箇所共当時野山ニ罷成申候事」

・・・相馬との戦いに加わった亘理領主伊達安房成実の陣地だったようである。(伊達と相馬の戦いは永禄8年から20年に及び・・・)政宗の陣地冥護山の傍に館を造り陣を張って戦ったこともうなずかれる。


Re: 宮城県丸森町の伊達成実城館伝承地 武水しぎの - 2008/09/11(Thu) 00:44 No.714  


ありがとうございます! これは存じませんでした。
また「住まい」のコーナーに加筆させていただきたいと思います。

長年戦っているだけに、いつのことか気になります。


Re: 宮城県丸森町の伊達成実城館伝承地 野崎 準 - 2008/09/11(Thu) 11:35 No.715  


『丸森町の城と館』では隣の政宗の陣があった冥護館(新人物往来社『日本城郭体系3』では「明子山城」)が「小斉城主佐藤紀伊が相馬から伊達に寝返った天正九年から金山城が伊達の手に入った十二年ころまで」伊達軍の重要な陣地だったとされています。
 この時代でも東北の城館は自然の地形に土塁・空堀を添える程度の簡素な作りです。関西では天正年間には仮城や陣屋でももっと立派な遺跡が残っていますが。


Re: 宮城県丸森町の伊達成実城館伝承地 武水しぎの - 2008/09/14(Sun) 23:27 No.717  


http://shigezane.fc2web.com/majime/sumai/oomori-jidai.html
に、大内西山館跡を掲載させていただきました。ありがとうございました。

輝宗期の基地だったのですね。
関西の建築はなぜか他の地方より立派なものが多いような気がします。


田小屋館について『相生集』の説明 投稿者:野崎 投稿日:2008/04/05(Sat) 21:04 No.705  

 管理人ブログに書き込んだのですが、本文は以下の通りです:

『相生集』巻八 渋川 田小屋館
 遊佐藤左衛門居る。古館弁(「積達古館弁」)に遊佐藤左衛門嫡子新左衛門云々。按に旧記には遊佐丹波守同下総守住せし也とあり。遊佐が一族殊に多ければ一決しがたし。佐藤左衛門といふもの旧記に見えず。遊佐藤左衛門といふもの此地の産にて藤五郎成実に従ひいたる。此藤左衛門が事なるべし。・・・按るに遊佐丹波守は畠山梅王丸にそむき箕輪館にて残らず誅せられし後は・・・伊達藤五郎入替りて住せし也。


Re: 田小屋館について『相生集』の説明 武水しぎの - 2008/04/10(Thu) 00:05 No.706  


ありがとうございます!
ブログにて返信させていただきました。
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