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刀剣入門書に伊達家の刀剣が 投稿者:野崎 準 投稿日:2017/07/11(Tue) 14:37 No.3269  

 小和田泰経氏の『刀剣目録』(新紀元社2015)を読む機会がありました。古今の名刀260振の解説書です。日本刀成立後から幕末までですが名前だけで今は失われた名刀も含まれていました。

 仙台伊達家関係では8振。伊達政宗公関係は「鎬藤四郎(吉光)」「鎺(はばき)国行」「陸奥新藤五(国光)」「燭台切光忠」の4振。それと伊達忠宗公の「別所貞宗」「太鼓鐘貞宗」「大倶利伽羅広光。家臣では伊達実元の「宇佐美長光」が紹介されていました。

 塩釜神社に奉納された刀剣や、永コレクションに入り現在京都国立博物館蔵の「和久江(郷義広)」などもはいっておらず、「観瀾閣宝物目録」に見える多数の政宗公寵愛の名刀も出ていません。

 宇佐美長光も「現北海道伊達市開拓記念館の二尺四寸五分の太刀」と、いささか考証が簡素に過ぎます。これを手掛かりに奥深い刀剣の森を各自ご訪問下さい、という本でしょうか。


Re: 刀剣入門書に伊達家の刀剣が 武水しぎの - 2017/07/15(Sat) 12:04 No.3272  


刀剣は奥深い森と沼かと。。。。。。
宇佐美長光は今秋の仙台の政宗展にくるそうで、見にいくのを楽しみにしています


馬がしゃべった! 投稿者:野崎 準 投稿日:2017/07/05(Wed) 19:54 No.3268  

「日本民俗学叢書」の昭和2年刊 磯 清『民俗怪異編』は全国の民話から「首なし馬」「化け猫」「狼」など動物中心の怪異譚を集めていますが、その中に「人語を語る馬」の話として寛政年中(1789-1801)鈴鹿峠の荷馬が馬方に扱いが悪いと愚痴を言ったこと、天保五年(1834)東海道藤沢―大磯間でこれも荷馬が人語を語ったという噂話を述べ、次いで「延徳元年(1489)足利義煕(義尚)将軍の近江国鈎の陣で葦毛の馬が『いまは叶ふまじ』と言い、河原毛の馬が『あら悲しや』と応じた。厩にいた全員が聞いたといい、翌日義煕公は急に薨じた」とありました。

 どこかで聞いたことがある、とネットにあたりましたら幕末尾張藩士の三好想山が書いた『想山紀聞奇集』に全部出ていると分かりました。足利将軍の話は「伽婢子」によるとありましたから中世にさかのぼる伝説でしょう。

 我らが成実君の著作にも大崎攻めの時馬が「敵の太鼓遅し遅し」としゃべり、敗戦の予兆だったように記されています。民俗学、国文学の解説者は「奇妙な鳴き声を人語と聞き違えたか、動物をダシにして神託のように演出したか」と覚めていますが、動物が人語を話す稀有な例として記憶したい事項です。


Re: 馬がしゃべった! 武水しぎの - 2017/07/15(Sat) 12:02 No.3271  


人語を解する馬の話と人語をしゃべる馬の話。似たように思っていましたがこうしてご紹介いただきますと後者は意外と珍しいのですね。

ヒトならぬものがものをしゃべるというのは多いように思いますが、馬がしゃべるのは稀有というのが少し意外でした


疾風十一騎 投稿者:野崎 準 投稿日:2017/05/19(Fri) 20:11 No.3263  

「信長甲州に攻め入れし比、秀吉は筑前守とて、西国毛利家に向て、甲州の軍に従はず。勝頼死して甲州平均なりといふを聞き、秀吉大息ついて、『あたら人を殺したる事の残り多さよ。我軍中にあるならば、しひて諫め申して。勝頼に甲越二州をあたへて関東の先陣としたらんに。東国は平押しにすべきに』とくりかへし悔やまれけり」(常山紀談)
 東国の騎馬隊の威力を西国大名が恐れていたことを示す話です。

 大阪夏の陣で真田信繁方に「上穂(うわぶ)十一騎」がいたと長野県駒ケ根市では伝えています。同地の武将千村家の騎士、駒ヶ岳大弐坊、春日昌光、小林義国ら十一人が真田に加わり「道明寺口で伊達政宗と戦った」と伝えていました。長野県南の大寺、駒ケ根市光前寺に慰霊碑(明治時代)があります。この付近は諏訪氏など甲州騎馬隊の本場でしたから、この伝説は武田の騎馬隊が奥州の騎兵と激突した唯一最後の戦いだったのかも知れません。



Re: 疾風十一騎 武水しぎの - 2017/06/03(Sat) 21:50 No.3265  


お教えありがとうございます。
武田の騎兵と伊達の騎兵が大坂で激突する、というのも不思議なめぐりあわせですね。。。


Re: 疾風十一騎 野崎 準 - 2017/06/12(Mon) 21:30 No.3266  


 道明寺の戦いで、大坂方の歩兵を蹴散らし破竹の勢いだった伊達の奥州騎馬隊を押しとどめたのは旧武田家臣で騎馬の扱いを心得ていた真田幸村、というのは諸書の記述から納得できますが、槍をもつ歩兵だけで伊達軍の先鋒を七八町押し返したとあるのが不審でした。もし少数と言え真田軍にも精鋭の騎馬隊がいたとすれば納得がいきます。

伝承とはいえ大坂方最後の攻勢にこの「上穂十一騎」がいたとすれば、長篠の戦い以後声なしだった武田騎馬隊の最後の栄光。駒ケ根市の方々も「同時代史料に無い、後世の捏造」と無下に抹消せず、語り伝えていてくれたのは有難い事と思います。最後の武田騎馬隊、上穂十一騎よ、安らかに。


能『千引』は多賀城の話 投稿者:野ア 準 投稿日:2017/03/16(Thu) 18:43 No.3260  

 宮城県多賀城市の史跡多賀城跡の西よりに「志引」という地名があります。多賀城南門近くの重文「多賀城碑」と関係する地名です。

 『室町時代物語大成』(角川書店)に『つぼの碑』という物語が載っています。「むかし陸奥の国府のあるけふの郡に巨石があった。坂上田村麻呂が悪路王を討伐した時に矢筈で日本中央と刻んだ石である。つぼの碑と呼ばれて信仰を集めていたが・長い時間の後祟りをなす様にもなり、守護の甲斐の某は石を運び去り破壊しようと決めた。郡内の人々千人を集めて縄をかけて引いたが巨石は動かせない。付近の娘の所に貴人があらわれ、自分はこの石の精だが汝は正直なのでお前が一人で引けば動くようにしてやる、と告げた。娘が申し出て綱を引くと千人で引いても動かなかった岩は坂を下る車、棹で操る船の如く自由に動いた。娘の話を聞いた守護は娘の正直に感じて大いに褒美を与え、裕福になった娘は僧を集めて破壊された巨石を供養した・・・」という話です。

 有名な話らしく、多賀城の地誌には「千引がなまって志引という字名になった」とされています。能にもこの物語を脚色した『千引』が宝生流にあるそうです。

 江戸時代に大日本史編纂のため水戸光圀公から「この石は今どうなっておるか?」と聞かれた伊達綱村公が宮城郡内を全面発掘して発見したのが「多賀城碑」だといわれており、江戸時代からこの碑が伝説の「壺の碑」なのかいろいろな論争がありました。今は歌枕の「壺の碑」は青森県上北郡の都母にあった碑で多賀城の碑とは違う、ということになっています。多賀城の発掘も続いていますが破壊された石碑が出土したという話も聞きません。

 みちのくの奥ゆかしくぞ思はるる つぼのいしぶみ外の浜風 西行


Re: 能『千引』は多賀城の話 武水しぎの - 2017/03/20(Mon) 22:17 No.3261  


「千引の石」の説話は聞いたことがありますが、多賀城とは知りませんでした!
何カ所か比定地があるようですね。
宝生流の「千引」は明治に廃曲になりましたが、復曲もされているようです。


Re: 能『千引』は多賀城の話 野ア 準 - 2017/03/21(Tue) 06:30 No.3262  


旧南部領で今は青森県上北郡内にある千曳神社の伝承は『御邦内郷村誌』という南部盛岡藩の地誌に出ており:ご神体の石の精が村の娘「壺」に語り、石は神社の地下に埋められ「壺の石」と呼ばれたとなっていました。青森県の民俗研究者は近くの「つぼの碑」伝承と混同された話だとしています。

多賀城市志引の伝説は仙台市岩切の千曳の巨岩を娘がここまで飛ばした。娘は観音の化身だったと更に脚色されて伝わっているようです。一番古いのが室町時代の『つぼの碑』で、伝わったそれぞれの地で地元の物語を加えられたのでしょうか。


伊達実元の城 投稿者:野崎 準 投稿日:2016/11/23(Wed) 17:05 No.3253  

『信達一統志』鼓岡邨 八丁目と相並びて北の方なり。

 西館 花街の西にあり。本丸跡竪三十間横二十間なり。天正年中芦野修理之亮家臣堀越能登守居住せり。案内記に云う。伊達左京大夫輝宗の臣清野備前守其子遠江守居住す。其の後に堀越能登守居るとなむ。信達古語に清野遠江守その君輝宗に背けり。その罪によりて西館において生害す。其あとに堀越能登守居住せり。堀越また二本松畠山義継に同意す。輝宗怒りて伊達藤五郎成実を以て攻めしむ。堀越遂に利を失ひて生害す。是より成実住居すと云。伊達鑑に大善太夫晴宗の舎弟兵庫頭基実隠居すとなむ。基実は成実の父なり。


信達にも青麻神社 投稿者:野崎 準 投稿日:2016/11/20(Sun) 18:18 No.3250  

 昭和59年の仙台市野草園のガイドブックに野鳥の鳴き声として、ホトトギスの「東京都特許許可局」やセンダイムシクイの「焼酎一杯ぐぃーっ」などを紹介していました。その中に「サンコウチョウは『ツキヒホシ ホイホイホイ』と鳴く」とありましたが、この「聞きなし」は岩切青麻神社の「月日星」です。

『信達一統志』宮城村の章に
「青麻宮 山王の宮前に安置す。近世仙台より移し奉る。抑々此神は三后光と申して則日月星を祭れるよし。一説に三后光は源義経・武蔵坊弁慶・常陸坊海尊の三人を祭る者と云。愚(著者志田正徳)按ずるに日月星の三光に右三将を合わせ祭る者なるべし、。世人中風の病を免むことを祈れり。其霊験あり。祈人鰯を食せず。六月十八日祭礼なり」
とあります。

 ここは現福島市宮代の日枝山王神社で末社に青麻神社が現存しているようです。
真田丸伝承地にも勧請されたのですから高血圧には効くのでしょう。



信夫郡大森城と成実君 投稿者:野崎 準 投稿日:2016/11/19(Sat) 18:23 No.3247  

福島市大森城

『信達一統志』
「城山 一名鷹峯城、一名白鳥城ともいへり。初め木邨伊勢守重次居住す。天正年中福島に移る。其後伊達兵庫頭基実居る。此人は伊達晴宗の弟也。後に八丁目邨西館に隠居し嫡子藤五郎成実居住せり。此人仙台亘理に移る。後公邨となる。慶長年中上杉家の封邑となる。上杉家米沢に移る。又公邑となる。其陣屋今の大森邨にあり。御代官岡田君初めて支配す。後に二本松侯の寄地となる。又会津侯寄地となる。・・・・信達歌に信夫の森と云あり。案ずるに…此の山を信夫森と云こと疑なかるべし。

いづくより吹来る風の散らしけむ 誰もしのぶの森の紅葉 隆房」

渡利邨
「高林寺 禅宗 山の麓にあり。伊達阿波(ママ)守殿息女豊姫建立なり。【伊達阿波守と云人は天正年中の人なり。然るに豊姫は此人の息女とある。疑はし。是は伊達兵庫頭息女なるべし。左あれば阿波守と兄弟なるか、何とも伝の誤なるべし】。開山導師は観高明察和尚なり。初、豊姫陽林寺二世舜爽和尚に帰依し天文十年辛丑五月二日初建立す。寺記に見えたり」。



Re: 信夫郡大森城と成実君 野崎 準 - 2016/11/19(Sat) 21:23 No.3248  


豊姫の話と墓の話はずっと昔にブログで紹介されていたと思います。
 「成実でなく基実の娘」、という説を紹介されていましたが、その後どうなっているのでしょうか?
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