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https://www.88kopi.com/menu/menu-58.html 投稿者:スーパーコピーウブロ時計 投稿日:2019/04/13(Sat) 06:51 No.3312  

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スズメ実方 投稿者:野崎 準  投稿日:2019/03/13(Wed) 16:35 No.3309  

 ニュウナイスズメという、普通のスズメと同じスズメ科スズメ目の小鳥がいます。普通のスズメと羽の模様が少し違い、山林に営巣し、春夏に北日本で繁殖、秋口に西日本に移動して稲を食い荒らし越冬する、とされています。

 若くして和歌の才能を認められながら陸奥守在任中、名取笠島の道祖神の神罰を受けて急死したと伝える藤原実方(?〜998)の死後、このスズメが内裏に侵入し神饌米を食い荒らし、「左遷され無念の死を遂げた左近中将藤原実方の霊がスズメになった」という夢告もあって、このスズメを「入内雀」、「実方雀」と呼ぶようになったとか。

 藤原氏の学校勧学院の末という更雀寺(現在は左京区静市)には「雀塚」があり実方中将の霊を祀っています。

 雷神になって都を荒らした菅原道真、比叡山に園城寺の戒壇設立を阻止され、鼠になって延暦寺の経典を食い尽くした頼豪阿闍梨のような話です。

 ちなみに辺境で早逝した貴公子として実方中将は関東・東北の民話にはよくあらわれ、山形県の歌枕「阿古屋の松」の伝説や、栃木県の「雀の宮」の伝説にも登場、「伝・実方中将の墓」も名取市以外にもあちこちにあります。


Re: スズメ実方 野崎 準  - 2019/03/19(Tue) 10:04 No.3310  


 鎌倉時代初期の『古事談』臣節の章に、実方中将が宮中での粗暴な振舞から、「歌枕見てまいれ」と東北に左遷される話、少し離れて歌枕探索中の実方が「陸奥の阿古屋の松」が今は出羽国になっているのを知る話と、現地で死に、その魂はスズメになって帰京、殿上の小台盤の米を云々という話があります。

 同時代史料では別に左遷でもなかったそうですが、伝説は古くからあったようです。

不思議なのは東北の、たとえば仙台の『奥羽観跡聞老誌』などはこの記載を引用していながらスズメの話は無視していることです。「仙台藩の学問は実証主義、怪力乱心は取らず。それに伊達公ご紋のスズメが妖怪とは失礼」、と言うのでしょうか。実方スズメの話は京都では江戸時代の名所案内にも普通に出ているのに。


Re: スズメ実方 野崎 準  - 2019/03/19(Tue) 10:12 No.3311  


訂正です
 
怪力乱心 → 怪力乱神


伏見城の論文に 投稿者:野崎 準 投稿日:2018/12/16(Sun) 18:34 No.3308  

 谷徹也「伏見城は『木幡山』にあったか」(『日本歴史』2018年12月号)を読みました。

「慶長伏見大地震で崩壊した伏見指月城の天守閣は秀吉の命令で『伏見の山』現在の明治天皇陵の付近に再建されるが、一般的にこれを『木幡山の伏見城』と呼んでいる。実際同時代の記録にも木幡山としている例があるが、本来天守閣を再建した伏見山は木幡山とは離れた別の山で、『伏見山城』と呼ぶのが正しい」という論考でした。

 本論文は歌枕の「伏見山」「木幡山」の考証から同時代史料、近世・近代の地誌、名所案内、伏見城の復元図まで詳細に調べていますが、再建天守が『小幡山』だとしている文献に「伊達成実『政宗記』」が出てきました。成実君も木幡山は漠然と伏見の北西の山だと理解していたのかも知れません。


京の刀展に・・・ 投稿者:野ア 準 投稿日:2018/10/02(Tue) 22:18 No.3306  

 京都国立博物館の「京(みやこ)のかたな」展をみてきました。

 山城刀工の国宝(三条宗近、粟田口吉光、来国光など)17振を含む国宝刀剣19振に山城刀匠に影響をうけた刀として正宗、村正、大阪新刀まで200点でしたから、「刀剣女子」が一杯でした。

 驚いたのは仙台藩の本郷(用恵)国包(くにかね)の刀がありました。国包は伊達政宗公の命で京都の三品正俊の弟子になり山城風の刀を打っています。解説は「伊達政宗の上方志向によるもの」と瑞巌寺や大崎八幡の美術に関連づけて説明していました。


無題 投稿者:デルピッポ 投稿日:2018/09/02(Sun) 22:11 No.3305  

ミスワールド日本代表になった伊達佳内子さんは亘理伊達氏の子孫らしいですね。


政宗公と青蓮院白書院 投稿者:野崎 準 投稿日:2018/07/02(Mon) 19:42 No.3302  

 京都で明治時代に糸物商の傍ら府議・市議を勤め有職故実・和歌・絵画にも造詣の深かった碓井小三郎の大著『京都坊目誌』の上京二十七学区(東山区粟田口)の社寺の項に、

 青蓮院 (伽藍)
白書院は伊達政宗の造進也。
白書院は対面所と云ふ。伊達政宗の寄進也と。

とあります。青蓮院は明治26年(1893)の火災で本堂以下を焼失し、対面所は再建さされていますが、今の伽藍解説には政宗公のお名前は見えません。応仁の乱以後荒廃していたこの門跡寺院は江戸初期に幕府が大いに再興したのですが・・・。


Re: 政宗公と青蓮院白書院 武水しぎの - 2018/07/25(Wed) 21:55 No.3304  


思わぬところから政宗の名前が出てくるのがおもしろいです。ありがとうございます。


政宗公の漢詩 投稿者:野崎 準 投稿日:2018/03/29(Thu) 22:24 No.3295  

遣興吟 伊達政宗
 馬上ニ青年過ギ。時、平(へい)ニシテ白髪多シ。
 残躯、天ノユルストコロ。楽(たのし)マズンバ
  復(また)如何セン。
 平声歌韻。馬上則ち兵乱の間に我が青年は過ぎ去り、乱定まりて太平の世となりては、白髪の多く生ずるを嘆くなり。ただ衰老せしこの身体は天の我に許し與へたる所なれば余年を楽しく送らずんば、復如何せんや。と。武将にしてこの襟懐と詞藻(しそう)とあり。真の英雄たる所以なり。

 大正三年(1914)、簡野道明講述の『和漢名詩類選評釈』(明治書院)に掲載されている政宗公の漢詩とその釈文です。菅原道真、武田信玄、上杉謙信、頼山陽、西郷隆盛、乃木希典らとともに政宗公の漢詩は他に「欲征南蛮有作」「朝鮮之役載一梅而帰。植之後園。詩以記」の二詩が収録されています。


Re: 政宗公の漢詩 野崎 準 - 2018/03/31(Sat) 18:18 No.3296  


 政宗公の歌集「伊達の松陰」(『仙台叢書』第一巻)では

酔余口号
 馬上少年過。世平白髪多。残躯天所赦。不楽是如何。

微妙に違います。大河『独眼竜政宗』のエピローグで脚本のジェームズ三木氏は
「(天下も取れず伊達郡以下の所領も失い六十二万石の老年では、)楽しまず、是れ如何。ではないか」と言っておられました。
どなたが改作したのか知りませんが「青年」「復如何」の方がすっきりします。


Re: 政宗公の漢詩 野崎 準 - 2018/04/01(Sun) 23:20 No.3297  


『常山紀談』巻四
○越中にて謙信、月を賞せられし事
謙信越中にて秋の夜諸将を集め、月を賞して詩あり。
 露滴陣営秋気清。数行過雁月三更。
 越山並得能州景。任他家郷念遠征。

この詩は頼山陽『日本外史』では改作して引用、
 霜満軍営秋気清。数行過雁月三更。
 越山併得能州景。遮莫家郷憶遠征。
となっており、こちらが人口に膾炙しています.

 霜ハ軍営ニ満チテ秋気清シ。数行ノ過雁、月三更。
 越山、併セ得タリ能州ノ景。遮莫(さもあらばあれ)、
  家郷ノ遠征ヲ憶フヲ。

 簡野道明『和漢名詩類選評釈』では「天正二年九月十三夜、上杉謙信能登を征し遊佐弾正を七尾城に囲む、偶々九月十三夜に会して月色玲瓏たり。則ち酒を置き月を賞して此の詩を賦す。・・・越国の山々と能州の風景を双瞳の中に収め得たるは男児の快心の極なり。ままよ、故郷の家族どもが我が遠く征伐に来ていることを気遣いあらんも、いかでかこの好景を見捨てて帰るべき、と。
 頼山陽の改作の方を賞しておられます。皆様は貞山公の詩、どちらがいいとお思いでしょうか。


Re: 政宗公の漢詩 武水しぎの - 2018/06/01(Fri) 23:22 No.3300  


青年のバージョン、初めて知りました。
青年バージョンの方が、おっしゃるように意味がすっきりするように思います。

ところで、中国語翻訳サイトに二つのバージョンを入力して、PCに現代北京語でに読んでもらいました。
少年バージョンの方が調子がよくて発音しやすいように聞こえておもしろかったです


伊達輝宗公越後に出兵 投稿者:野崎 準 投稿日:2018/05/18(Fri) 07:38 No.3298  

『性山公治家記録』巻之四

 天正六年(1578) (輝宗)公御年三十五
・・・十月。信長公ヨリ越後御働注進ノ御返答トシテ御書。並ニ大津伝十郎長昌ヨリ遠藤山城基信ヘノ返状到来ス。
「・・・・謙信遠去以来、至越後御働、随々破却之由然ルベク候、此方ニ従ヒ越中表出勢ヲ被り、遂ニ一戦ヲ遂ゲ敵数千人討取、一国平均候・・・(大津よりの書状、信長書状は伝わらず)」
 右越後御働ノ事。去年閏七月信長公ヨリ越後上杉輝虎入道謙信悪逆ニ就テ誅伐ヲ加ラルノ間、・・・・(相馬との対立、晴宗公の卒去で遠引したが謙信が死去したので)此時一戦ヲ勤マルベシト越州ヘ御出馬、支城所々攻メ抜キ玉フ。因テ御書ヲ以テ信長公ヘ注進セラル。遠藤山城基信モ大津伝十郎長昌マデ書状ヲ以テ注進ス。
 越後御出陣御帰陣ノ月日並ニ御戦ノ様子等ハ不伝。

 伊達輝宗公の越後攻めはどこかに出典があるはずと探していましたが、これのようです。越後側に記録がないのは御館の乱の大混戦に大きな影響はなかったからでしょうか。


Re: 伊達輝宗公越後に出兵 武水しぎの - 2018/06/01(Fri) 22:40 No.3299  


気づいてませんでした!
また引っ張り出して読んできます


奥州征伐をもう一度 投稿者:野ア 準 投稿日:2017/12/18(Mon) 19:17 No.3289  

 天正十八年、奥州の有力大名葛西・大崎両氏はうち続く内部争いのため小田原参陣も上洛の命にも従わなかった。太閤秀吉は激怒し、伊達政宗に大崎・葛西を討てと命じた。
 七月下旬、伊達政宗は伊達藤五郎、伊達安芸、片倉小十郎、茂庭周防、石見、原田らの勇将と共に二千七百騎を率いて白川の関を超えた。
 ところが伊達の大城戸(阿津賀志山)で待ち受けた大崎の軍は強く伊達勢は総崩れになり政宗、小十郎など八騎がようやく近くの山の中の古びた八幡神社に逃げ込んだ。
 堂守の老婆に小十郎が食物を懇願すると老婆は「食物はないが本日は八幡様の祭日なので濁り酒がある」と一同に振る舞った。すると政宗以下は一気に気力・体力を回復した。老婆は更に「この下の沼を船で渡れば大崎の陣の背後に出る。本陣に討ち入って、正否は置いて『大崎の大将を討ち取ったぞ』と大声を上げたら総崩れになるだろう」と教示した。政宗は残兵を集めて沼を渡り、計画通り大崎軍は崩壊、葛西も降伏した。
 岩出山に落ち着いた政宗は八幡神社にお礼の使者を使わしたが堂守の老婆はおらず、政宗の与えた甲冑の上帯が社殿の鈴の引き綱になっていた。政宗はあの老婆が八幡神の化現だったと気がつき、以後仙台大崎八幡神社の祭礼には濁り酒を出すこととした。
・・・

 大正十二年ころ『河北新報』に連載された「伝説と口碑を訪ねて」という連載記事の一部です。『大正期怪異妖怪記事資料集成』下(湯本豪一編、国書刊行会・2014)で読むことができます。まあ、失礼ながら昭和後期の仙台で出版された伝説集より遙かに面白いのは確かです。

 私達はこういう話を「史料にない、『伊達治家記録』にない、土民の捏造、妄語、歴史は正しくなくてはならない」と否定してきたのですが、そのかわり何か大切な物を置き忘れて来たのではないか? と思うことがあります。


Re: 奥州征伐をもう一度 野ア 準 - 2017/12/20(Wed) 15:34 No.3290  


『河北新報』記事の正式のタイトルは「滅び行く伝説と口碑を索ねて」で大正13年12月から14年11月まで、最終回は190回とありました。
 初めて聞く話が多く、昔の資料もこまめに探しておく必要があると痛感しました。


米沢市館山城の調査 投稿者:野ア 準 投稿日:2017/11/30(Thu) 18:42 No.3286  

『日本歴史』2017年6月号の文化財レポート 佐藤公保「山形県米沢市館山城跡の調査」を読みました。

 米沢市の西の山裾、大樽川と小樽川に挟まれた大地に土塁と空堀で郭をつくり、「北館」「東館」「南館」の地名が残ること、北館は平成13年の調査で掘立建物33,井戸7を含む9期に分けられる遺構、東館も平成15,23,24年に調査され、枡形虎口と石垣が発掘されたこと、石垣は凝灰岩で隅が算木積であり、未完成で破却されていることから上杉氏時代と考えられる事、遺物は中国輸入陶磁器、瀬戸・美濃・唐津の陶器、内耳土鍋、カワラケなどが出土。とありました。

 史料による考察も興味深かったのですが、梁川城・西山城・大森城など信達の戦国期城跡を見た経験からは、山上で発掘されたのは「詰めの城」で、武家屋敷や神社仏閣、城下の市場などが二つの川の東側、今「館山」と呼ばれている地域ではないか、住居表示改正前の地名、地籍図による古い町割りの検出などが必要ではないかと思いました。この報告では上杉氏時代の米沢城が館山城の里館のように記されていますが、少し遠すぎるような気がします。

 いつか越前一条谷の朝倉館跡のような遺跡が見つかるのを楽しみにしています。


Re: 米沢市館山城の調査 武水しぎの - 2017/12/08(Fri) 14:50 No.3288  


館山城、去年行ってきました!
伊達の城説、上杉の城説。石垣が上杉説のポイントのような印象があります。

おっしゃるように館山城が松が岬の詰めの城というのは無理があると思います。遠いのはもちろんですし、見通しも悪すぎるように思います。

そして館山城下町も同じように思いました。

二つのお城の関係がとても気になっています。

輝宗が住んだ舘山ですが、直接に松が岬の米沢城と関係するというよりも。

大森城(成実)と八丁目城(実元)
小浜城(政宗)と宮森城(輝宗)

の関係と似てる気がします。どちらも後者も城下町を伴ってますし。
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