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伊達の星 投稿者:野崎 準 投稿日:2012/02/11(Sat) 08:07 No.1271  

野尻抱影先生の随筆から:

「一年の空を通じて三つの輝星がほぼ同じ間隔で一文字を描いているものが三対ある、すなわち冬のオリオンのミツボシと、夏のさそり座のアンタレースを中心とする三星と、おなじく鷲座のアルタイルを中心とする三星である」(『星と伝説』星の追いかけ伝説)。

「三星は千葉・茨城では主として三チョーノホシ、三チョーレンだが、埼玉・群馬・栃木地方では三ジョーサマで、これは明星をミョージョーと言うように「三星さま」のことと思われる。…それが福島・宮城・岩手地方に入ると三ダイショーとなる。…なお仙台では蠍座の三星を三ダイミョウ(三大名)と呼んで伊達・上杉・南部三家をさすものらしいと聞いたが、これは明らかに三ダイショーが化けたので、正しくは三つ星を言うものに違いない」(『星三百六十五話』冬)。

 蠍座の三星は赤い星で有名なアンタレースとその上下の星だそうです。地元ですから当然一番目立つ赤星が伊達様の星なのでしょう。


伊達輝宗の冒険 投稿者:野崎 準 投稿日:2012/01/14(Sat) 09:18 No.1266  

 京都府亀岡市の郷土誌 永光尚『盥魚庭落葉(たらいのうお にわのおちば)』復刻本を入手しました。

 享保14年(1729)に俳人淡谷淡水・下山求魚の二人がまとめた亀山藩内(「亀岡」は明治以後に伊勢亀山との混同を避けて改めた名)の地誌『盥魚』を藩校の学者矢部致知が天保12年(1841)に復刻し『庭落葉』というコメントをつけて出版したものを一部現代語訳で紹介したものです。

全三巻の下巻に宝蔵寺鎮守「伊達宮」として、宇都根の延喜式内社伊達神社の伝承として、奥州平泉の藤原秀衡の子和泉三郎忠衡が上洛中の悲恋伝説を記述しています。それへの矢部致知のコメントは、土田村の俣野家は忠衡所縁の者といい書付が保存されているが尤も信用できぬ、として、

「伊達政宗公御父輝宗公御簾女と御二方京都の乱をさけて当亀山安町中島与三兵衛なる者の方に御入りあり、御滞留中宇都根川上倉田淵に住んでいた大蛇を射殺され、その血流れに沿って色赤くなる。依って赤川と名づける、その内に若君御誕生され与三兵衛が鎮守を産神とされる。…御帰国の節輝宗公より御槍一筋、御簾中より御鏡を賜う」その一人娘が俣野家に嫁入りの時持参し今にある…。とありました。

「御簾方」は奥方の事ですから輝宗・義姫夫妻の怪物退治の物語で、生まれた若君が政宗だというのでしょう。伊達の社名から悲劇の最後を遂げた伊達輝宗の事はこの地にも伝わっていたのでしょうが、スサノオノミコト的な民話の主人公になっているとは驚きました。


Re: 伊達輝宗の冒険 武水しぎの - 2012/01/19(Thu) 00:48 No.1267  


輝宗と義姫だったのですね!
輝宗自身が川べりで死ぬことになるので、なんだか妙な気分がします。

伊達神社の社名ですが、ご祭神が五十猛命。イタケルの転訛かなと思っていました。
宮城県色麻の伊達神社の伝承では播磨国飾磨の射楯(いたて)神社からの勧請だそうで、ここもご祭神は五十猛命(射楯大神)です。


Re: 伊達輝宗の冒険 野崎 準 - 2012/01/20(Fri) 11:57 No.1268  


西日本の伊達神社は京都大学の湖南先生内藤虎次郎博士の「近畿地方における神社」(『日本文化史研究(上)』講談社学術文庫で読める)に「イダテ=射立、射楯・兵主で中国山東半島の軍神が渡来したもの」と言うのが定説になっているようです。伊達の名前で「伊達の秀衡」や政宗公を連想したのでしょう。

 柳田國男先生や昨年逝去された『鉄から詠む日本の歴史』の窪田蔵郎氏は、竜蛇を退治するのは鍛冶神、鉄の英雄だとしておられますが、そちらの伝承も入っているようです。誤りだと言いながらも採録してくれた著者に感謝しなくては。


伊達家の正月連歌 投稿者:野崎 準 投稿日:2011/12/15(Thu) 10:00 No.1256  

 11月天神市で北野天満宮の宝物館が開館していましたので見学しましたら、北野法楽連歌の展示がありました。

 中世文芸界を風靡した連歌は現在では俳句の影に消えてしまっておりますが、連歌から江戸の俳諧連句までは当節の句会などに比べると厳粛な儀式で、会所の床の間に渡唐天神像か「天満大自在天神」の軸をかけ、生花を飾り、香を焚き、円座をならべて亭主、宗匠、執筆(しゅひつ)、その他の役職が着席、宗匠の「執筆、執筆!」の声で執筆が「文台」につき床と客に一礼、定めに従って墨を磨り、懐紙を折り…発句・脇句、御前句と進行します。
懐紙は4枚を二つ折りにし1枚目の懐紙の表(一の折)と四枚目の懐紙の裏(名残の折)が和歌8首、他の面は14首、和歌50首で百韻、各句を二行に記し作者名を入れる。一の懐紙表に開催年月日、場所、賦物(タイトル「賦何○連歌」など)、名残の懐紙には句上(くあげ・誰が何句読んだか、執筆は誰か)を記す(ただし北野法楽懐紙は「裏白」として表だけで懐紙8枚を使う)。最後の句、「挙句(「挙句の果て」、の語源)」が終わると執筆が全句を朗読し、厳粛な「文台返し(『若者たち』、『巨人の星』の「ちゃぶ台返し」の語源)」の儀式があり、懐紙の右端を紙縒で閉じ三つ折にして保管する…、でした(綿抜豊昭『連歌とは何か』講談社選書メチエ2006、森本哲郎『書物巡礼記』他)。

 文芸的鑑賞より連衆(参加者)の和が重視され、「花を四、月を七・去嫌(すききらい)・打越・一字露顕」など複雑煩瑣な決まり通りに詠んでいるだけで面白くない、というのでしょうか、「水無瀬三吟百韻」「湯山三吟百韻」「愛宕連歌」など、余程の名作か歴史的に重要な連歌会以外は懐紙の活字化はあまりありません。

伊達家では戦国時代から幕末まで正月連歌がありましたが、「発句は藩主が七種若菜、脇句は宗匠が梅、第三句は嗣子が鶯を詠むこと。夢・不如帰・左遷・黒衣・煙などは不吉なので詠まない」などと形式的なものでした。
 政宗公仙道七郡征服の翌天正18年の連歌も『治家記録』は懐紙・連衆とも伝わらず、として「七草ヲ一葉ニヨセテツム根芹」の政宗の発句しか引用していません。
割合に詳細に記録した例は『性山公治家記録』三にあります。
天正五年正月七日連歌 
 賦何木連歌
 雪ノ花フル手ニタマルナツ菜哉 道祐(伊達晴宗)
 ナツサヒ来ツル梅ケ香ノ春  光仁
 百千鳥軒端ツヅキノ山カケテ 伊達輝宗
 トリトリウタヒ帰ル柴人 仲清
 暮ワカヌ月ニナル夜の道スガラ 宗(伊達政宗)
 ケフマタナツカ秋風ノ空 亮秀(以下略)




Re: 伊達家の正月連歌 野崎 準 - 2011/12/15(Thu) 18:02 No.1257  


追記:広木一人編『連歌辞典』(東京堂出版、2010)「七種連歌」の項に:「仙台伊達家の正月連歌、若菜連歌ともいい、発句を当主、脇句を竜宝寺法印、第三句を嗣子が詠む。発句に若菜、セリ、ナズナ、脇句に梅、第三句に鶯を詠む」旨がありました。政宗公時代に形が定まり、宇和島伊達家でも行われていたようです。


Re: 伊達家の正月連歌 野崎 準 - 2012/01/05(Thu) 21:53 No.1263  


 東北の戦国大名の連歌として 木藤才蔵『連歌史論考』明治書院・増補改訂版・平成5年 が政宗を差し置いて最上義光をあげています。
 上洛時に里村紹巴、昌叱などとの百韻の懐紙を残し、連歌新式の聞書を紹巴に送り加筆訂正させている、とあります。

 『奥羽永慶軍記』では政宗と和歌を交わし、駒姫誕生で連歌会を催そうと「連歌師を求めてまいれ」と部下に命じたところ、「領内に赤樫、白樫はたくさんございますが、レン樫などという木はございません」と答えられたと、嘲笑的に描かれています。
 まあ、連歌会が単なる社交の場となり、形式化して消えていく直前の時代でしたから。


Re: 伊達家の正月連歌 武水しぎの - 2012/01/14(Sat) 00:14 No.1264  


かなり形式ばったものなのですね。
治家記録だったか、読んだ記憶がありますが、参会者がお寺さん中心だったように思います。
「佳例」と言われるように予祝というか祭りというかそういう要素もあるのでしょうか。

最上領にカシの木があったんですか。今よりも温暖だったのかなぁ。


Re: 伊達家の正月連歌 野崎 準 - 2012/01/14(Sat) 06:47 No.1265  


綿抜豊昭『近世前期猪苗代家の研究』(新典社研究叢書・平10年)に伊達家正月連歌は「元日に死んだ先祖を供養するため」という説を紹介し、「ナズナを歌うのはその先祖がナズナ紋を使っていたからではないかという説があるが、伊達家にはナズナ紋はないし、ナズナ以外の句もある」、と否定しています。

 『日本紋章総覧』のナズナ紋には「畠山・伊丹・京極・丹羽…仙台伊達家など13家が用いる」とありますが。


Old Dog Fight 投稿者:野崎 投稿日:2011/09/28(Wed) 10:34 No.1244  

 陸奥守政宗殿中御能の節、兼松又四郎と云御旗本士に対して無礼あり、又四郎握拳にて政宗の額を打つ。政宗手を拍て笑ひ、扨も男なり男なりとて興ぜられ、帰館後家老片倉小十郎に右の事を語り、扨々危なき事なりしが小身者を相手にする事にて無し、面白く外したり、と咄されしを片倉小十郎聞て、最も左様にて御座候。去り乍ら小身衆に御無礼無之様。御慎可被成候と答えしぞと (『翁草』日本随筆大成三期21) 



Re: Old Dog Fight 野崎 - 2011/09/28(Wed) 20:15 No.1245  


 「翁草」は前の方にも政宗と又四郎のトラブルが出ています。これは「片倉小十郎の話がついているのを知ったので追加した」と神沢杜口の注記がついていました。


松島の瑞巌寺ほどの寺でも… 投稿者:野崎 投稿日:2011/08/26(Fri) 11:35 No.1238  

 昔、松島瑞巌寺の宝物館青竜殿の学芸員をしておられた方から「慶長大津波の塩害で荒れていた水田跡を当山中興の雲居禅師が復旧した。今『うぐい田』という地名が残っている」と教えていただいたことを思い出し、検索してみましたら場所は仙台市荒浜でした。
 雲居禅師が瑞巌寺に招かれたのは政宗公の遺言により寛永13年(1636)、遷化は万治2年(1658)でした。その間とすると津波のあった慶長16年から30〜40年の後となります。塩害だけではなく地形の変化による農業用水の修復なども必要だったのでしょうが、瑞巌寺ほどの寺でも津波からの復旧は大変だったようです。


Re: 松島の瑞巌寺ほどの寺でも… 武水しぎの - 2011/08/31(Wed) 16:22 No.1239  


慶長津波からの復旧・復興に興味を持って、ちょうど調べていたところでした。
ありがとうございます。
仙台平野海岸部は排水が悪く、近代まで干ばつになると塩害がでやすかったという話を聞きますので、400年前ですとさぞたいへんだったろうと思います。
灌漑用の堰の話はよく目にするのですが、排水路の話をあまり目にしません。気になっています。
寛永検地の頃に復旧・復興のめどがついたような印象を持っています。


Re: 松島の瑞巌寺ほどの寺でも… 野崎 - 2011/08/31(Wed) 19:28 No.1241  


 江戸時代前期に佐渡金山の南沢疎水、箱根芦ノ湖の箱根用水など大規模なトンネル技術を使った土木工事がありますが、その前後、元禄ごろに仙台藩が品井沼の干拓のため沼から松島湾までトンネルを作って排水した例があります。「元禄潜穴(げんろくせんけつ)」と呼ばれています。
まともに両側から掘ると何十年もかかるので、多数の竪穴を掘り、底部から正確な測量技術によって横穴を掘ってつなげていく方法です。これは中近東の導水路「カナート」の技術がアレキサンダー大王によってフェルガナ地方に伝わり、張騫によって中国に、さらに日本に伝わった技術だとされています(小堀巌編『マンボ―日本のカナート』三重県郷土資料刊行会 1988ほか)。
品井沼干拓は明治にもう一本潜穴を掘って完成するのですが、元禄のトンネルは「鮭が遡上してくる」そうです。何か設計技術に自然が許容するところがあるのでしょう。


Re: 松島の瑞巌寺ほどの寺でも… 野崎 - 2011/09/01(Thu) 07:04 No.1242  


 仙台藩では排水路を「悪水堀」とよんでいたようです。高倉淳先生の『仙台領の潜り穴』(今野印刷・2002)によりますと、二代目川村孫兵衛元吉が仙台市清水小路の湧水を排水して灌漑用水路「源兵衛堀」を掘削したのですが、排水路の部分を「悪水堀」と称していました。


Re: 松島の瑞巌寺ほどの寺でも… 武水しぎの - 2011/09/02(Fri) 00:53 No.1243  


吉田邑の悪水堀の件ですね。ありがとうございます。
今野印刷、チェックしてみます。(ちょっと今月、いや先月は本を買いすぎたけど)
「悪水路」大辞林には「排水路」とありました。

カナートと鮭の遡上の話は面白いですね。


独眼竜、油断できぬ 投稿者:野崎 投稿日:2011/08/11(Thu) 20:54 No.1235  

 近世民衆史で大阪城天守閣博物館におられた岡本良一氏(1913−88)の筑摩新書『大阪冬の陣・夏の陣』(1964)には政宗公が5箇所記載されています。冬の陣では1)包囲陣の浅野長晟(ながあきら)が内応の疑いをもって政宗に交代させられたこと、2)『治家記録』にも見える城内からの500〜600匁の砲弾の記事でした。
 夏の陣での3)5月6日道明寺口の戦いでは騎馬鉄砲隊800を率いて大活躍。4)秀頼・淀君の最後も政宗書簡を引いて説明しています。
 最後に5)『薩藩旧記』を引いて7日に船場口から攻め込んだ政宗が先陣を取った東軍の神保相成の軍を「逃げてくる兵は味方でも殺す」と強弁して皆殺しにしたという説を紹介。「相手が油断のならぬ伊達政宗であるだけに家康も大目に見たようであるが、凄まじい功名心ではある」とコメントしておられました。
 この事件、『難波戦記』では道明寺口での事件としていますし、出典も『常山紀談』より更に後の編纂物で、直接見聞した記録ではないのですが、噂にしてもそう囁かれていたのは、「伊達政宗、油断できぬ」は家康公だけでなく上方衆が一様に感じていたのではないか、と思いました。


Re: 独眼竜、油断できぬ 武水しぎの - 2011/08/14(Sun) 23:26 No.1236  


味方討ちの件、私も道明寺の話と思っていましたが、船場口の話もあるのですね。

>噂にしてもそう囁かれていたのは、「伊達政宗、油断できぬ」は家康公だけでなく上方衆が一様に感じていたのではないか、と思いました。

同感です!


宗実という仏工 投稿者:野崎 投稿日:2011/06/21(Tue) 21:42 No.1227  

 仙台の時宗寺院に阿弥陀寺があります。

時宗 阿弥陀寺 宮城県仙台市新寺 法王山正覚院
 弘安三年(1280)宗祖一遍上人開山 伊達政依開基。もと福島県伊達郡梁川町。伊達忠宗により現地移建。正保元年朱印24石を受ける。34世貫阿は藤沢(遊行寺)30世呑快となる。
       (時宗教学研究所編『時宗辞典』平成元年)

 『史迹と美術』450、昭和49年に山田泰弘「仙台阿弥陀寺の阿弥陀如来像」として、ここの阿弥陀如来立像が紹介され、「承久三年(1221)二月日 作仏僧宗實」の銘が左足の柄にあると報告されていました。快慶風の寄木造玉眼で、寺の創建より古く、阿弥陀寺以前の作品であると紹介されていました。はるか戦国時代の白石宗実、伊達宗実らと同名なのは何か気になりますね。


Re: 宗実という仏工 武水しぎの - 2011/07/11(Mon) 23:25 No.1231  


とても古い仏像なのですね。寺の創建以前から大事にされてきたというのが面白いです。

関係ないのでしょうが、確かに名前が同じだと気になります


庵楽庵策伝と伊達政宗 投稿者:野崎 投稿日:2011/06/16(Thu) 21:30 No.1226  

酉(寛永10年)三月十日御収短冊 仙台中納言様
 あづまがた鄙のすまゐも花盛 さぞな都の春ぞおもしろ 政宗
御返 同六月十二日に
 春過ぎてしげる青葉におもひきや 君が詞の花を見んとは 策伝

甲戌(寛永11年)七月朔日陸奥守様より白蓮華を上けるに
送りくる御法の花に詠(ながむ)ればこれぞ安楽世界なるべし 政宗

浄土宗西山派長老で『醒睡笑』の著者、安楽庵策伝の『策伝和尚送答控』。政宗公の和歌2首、策伝の和歌5首を載せています(鈴木棠三(棠は木偏)『安楽庵策伝ノート』昭和49年)。

 鈴木氏は政宗と策伝の関係を考察され、古田織部の弟子清水道閑や小堀遠州を介しての交際かとしておられます。『伊達治家記録』寛永3年政宗上洛の10月13日記事に「御数寄屋ニ於テ安楽庵教伝…御茶ヲ共セラル」「教伝ヨリ今朝ノ御礼トシテ香炉持参」が策伝の誤記であると。
 また政宗公に献上した策伝自筆の自選歌集が岸和田市の国文学コレクターとして有名な故出口神暁氏の蔵書にあるとされていました。いま関大にある出口氏の「鬼洞コレクション」に入っているのでしょうか。


Re: 庵楽庵策伝と伊達政宗 武水しぎの - 2011/07/11(Mon) 23:24 No.1230  


うっかり一カ月近くたっていましたm(_ _)m

応答の形で歌を見ると素敵です。
へうげものに庵楽庵策伝でてくるかな……


成実の愛馬と愛刀 投稿者:リチウム 投稿日:2011/06/01(Wed) 23:57 No.1218  

こんにちは。芝居に伊達成実を出す為参考にさせて頂きました。非常に役に立つサイトをありがとうございます。

ここで質問なのですが、政宗の愛馬達や愛刀については記録が残っていて、刀のレプリカも売っていますよね。

成実の刀や馬の名前などについて記録は残っていないのでしょうか?
成実がどんな武器を愛用していたかの情報でも構いません。(〇〇尺の〇〇色の槍など)
もしございましたらお願い致します。


Re: 成実の愛馬と愛刀 ベリリウム - 2011/06/03(Fri) 22:53 No.1219  


 備前長光の太刀と天流薙刀術の話、このホームページのどこかにあります。


Re: 成実の愛馬と愛刀 ホウ素・酸素・窒素 - 2011/06/10(Fri) 20:30 No.1220  


 成実君は大将ですし、天正13年に火薬の爆発事故で右手に大火傷を負っていますのでその後は天流の薙刀も刀も使わなかった…という見方もありますが、『東藩史稿』だったかに、「出奔時代に他主に仕えていた旧臣を政宗の没後忠宗に将として推薦した、その旧臣がお礼に参上すると、『伊達家の為に役立つから推薦したので汝の行動を許した訳ではない、出て失せろ!』と大薙刀を振り回して追い払った」とあります。
 薙刀は本来僧兵などの歩兵が騎兵に対抗するための武器なのですが、馬上で振り回すなど猛将には相応しい大業物でしょう。


Re: 成実の愛馬と愛刀 武水しぎの - 2011/06/11(Sat) 10:38 No.1222  


宇佐美長光
http://shigezane.fc2web.com/majime/nazo/usami.html

天流薙刀免許
http://shigezane.fc2web.com/majime/nazo/yakedo.html

馬印
http://shigezane.fc2web.com/asobi/sozai/sozai.html

です。遅くなってすみません。


Re: 成実の愛馬と愛刀 炭素 - 2011/06/11(Sat) 20:57 No.1224  


 亘理伊達家の竹雀紋、背面飛行をしている雀がこのホームページでは向かって右側ですが、亘理町『伊達成実公亘理入府四百年記念・伊達成実』や『歴史街道』東北戦国武将伝、では左側です。使い分けでもあったのでしょうか?


Re: 成実の愛馬と愛刀 武水しぎの - 2011/06/11(Sat) 22:29 No.1225  


あー、それも気がついてませんでした。なぜでしょう。

うちのサイトのは、仙台市博物館調査研究報告No.19の御家御紋御鑓御駕籠紋図より伊達安房家幕紋をスキャンしたものを下図にしてます。
向かって右が阿形で背面飛行、左が吽形で通常飛行です。

言われてみますと、現ご当主が使ってはるの背腹・阿吽とも、反対ですね。(陣羽織の竹雀から起こしたもののようですが)


Battle Buddha 投稿者:野崎 準 投稿日:2011/02/25(Fri) 19:10 No.1209  

愛宕神社 鹿落(ししおち)坂東南に立ち給ふ。伊達米沢輝宗公、当社守本尊の由。御宝物数々あり。愛宕の神社は山城国愛宕郡に鎮座。伊弉冊尊御子軻遇突智(かぐつち)神。是は人家に祭る釜神なりと神社便覧に見えたり。当社いづれの代より鎮座といふ事知れず。(『残月台元荒萩』仙台叢書一)

 仙台愛宕神社は青葉山の南西、仙台市向山一丁目にあります。「米沢から岩出山、仙台元寺小路を経て慶安三年(1650 )現在地に移転。愛宕太郎坊天狗の像、白石片倉家寄進の烏天狗絵馬などがあり、別当誓願寺は本地仏普賢菩薩をまつる」と観光ガイドにありましたが、山城国愛宕神社の防火神としての信仰が盛んになったは江戸時代からだそうで、中世の本地仏は勝軍地蔵。甲冑に袈裟をまとい矛を持って白馬にまたがる戦闘仏でした。
 伊達輝宗公の守本尊、片倉重綱君の兜前立「愛宕大権現守護所」も勝軍地蔵への必勝祈願だったのでしょう。


Re: Battle Buddha 野崎 準 - 2011/03/01(Tue) 12:39 No.1210  


仏教大学アジア宗教文化情報研究所『愛宕山と愛宕参り』(2004)に、中世の愛宕勝軍地蔵の信仰者代表として「伊達政宗の家臣片倉小十郎」が出てきました。兜の前立のほか鉄砲や槍にも神号が入っていたとか。


Re: Battle Buddha 野崎 準 - 2011/03/10(Thu) 19:36 No.1212  


伊達実元の八丁目城は愛宕山といい、毘沙門堂と愛宕神社がありました。また成実も亘理移封後に城の北西に愛宕神社を祭った。とあります。


Re: Battle Buddha 武水しぎの - 2011/05/01(Sun) 18:03 No.1215  


亘理、大雄寺のちょっと北に、愛宕山があって、その下の地名が「愛宕前」「鳥居前」ですね。
新地にも愛宕神社ありました。角田にも。軍神と知って見る目がかわりました。


Re: Battle Buddha 野崎 - 2011/06/11(Sat) 06:41 No.1221  


『亘理伊達家史料』323に蝦夷地警備関係の伊達宗賀書状に、「先祖成実外征の砌は京の愛宕権現像を陣中して勝利あり」、とありました。それが亘理の愛宕神社のご神体だとか。


Re: Battle Buddha 武水しぎの - 2011/06/11(Sat) 10:39 No.1223  


それ、気づいてませんでした。というか、まだそこまで読めてない……。
ありがとうございます
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