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政宗公の漢詩 投稿者:野崎 準 投稿日:2018/03/29(Thu) 22:24 No.3295  

遣興吟 伊達政宗
 馬上ニ青年過ギ。時、平(へい)ニシテ白髪多シ。
 残躯、天ノユルストコロ。楽(たのし)マズンバ
  復(また)如何セン。
 平声歌韻。馬上則ち兵乱の間に我が青年は過ぎ去り、乱定まりて太平の世となりては、白髪の多く生ずるを嘆くなり。ただ衰老せしこの身体は天の我に許し與へたる所なれば余年を楽しく送らずんば、復如何せんや。と。武将にしてこの襟懐と詞藻(しそう)とあり。真の英雄たる所以なり。

 大正三年(1914)、簡野道明講述の『和漢名詩類選評釈』(明治書院)に掲載されている政宗公の漢詩とその釈文です。菅原道真、武田信玄、上杉謙信、頼山陽、西郷隆盛、乃木希典らとともに政宗公の漢詩は他に「欲征南蛮有作」「朝鮮之役載一梅而帰。植之後園。詩以記」の二詩が収録されています。


Re: 政宗公の漢詩 野崎 準 - 2018/03/31(Sat) 18:18 No.3296  


 政宗公の歌集「伊達の松陰」(『仙台叢書』第一巻)では

酔余口号
 馬上少年過。世平白髪多。残躯天所赦。不楽是如何。

微妙に違います。大河『独眼竜政宗』のエピローグで脚本のジェームズ三木氏は
「(天下も取れず伊達郡以下の所領も失い六十二万石の老年では、)楽しまず、是れ如何。ではないか」と言っておられました。
どなたが改作したのか知りませんが「青年」「復如何」の方がすっきりします。


Re: 政宗公の漢詩 野崎 準 - 2018/04/01(Sun) 23:20 No.3297  


『常山紀談』巻四
○越中にて謙信、月を賞せられし事
謙信越中にて秋の夜諸将を集め、月を賞して詩あり。
 露滴陣営秋気清。数行過雁月三更。
 越山並得能州景。任他家郷念遠征。

この詩は頼山陽『日本外史』では改作して引用、
 霜満軍営秋気清。数行過雁月三更。
 越山併得能州景。遮莫家郷憶遠征。
となっており、こちらが人口に膾炙しています.

 霜ハ軍営ニ満チテ秋気清シ。数行ノ過雁、月三更。
 越山、併セ得タリ能州ノ景。遮莫(さもあらばあれ)、
  家郷ノ遠征ヲ憶フヲ。

 簡野道明『和漢名詩類選評釈』では「天正二年九月十三夜、上杉謙信能登を征し遊佐弾正を七尾城に囲む、偶々九月十三夜に会して月色玲瓏たり。則ち酒を置き月を賞して此の詩を賦す。・・・越国の山々と能州の風景を双瞳の中に収め得たるは男児の快心の極なり。ままよ、故郷の家族どもが我が遠く征伐に来ていることを気遣いあらんも、いかでかこの好景を見捨てて帰るべき、と。
 頼山陽の改作の方を賞しておられます。皆様は貞山公の詩、どちらがいいとお思いでしょうか。


奥州征伐をもう一度 投稿者:野ア 準 投稿日:2017/12/18(Mon) 19:17 No.3289  

 天正十八年、奥州の有力大名葛西・大崎両氏はうち続く内部争いのため小田原参陣も上洛の命にも従わなかった。太閤秀吉は激怒し、伊達政宗に大崎・葛西を討てと命じた。
 七月下旬、伊達政宗は伊達藤五郎、伊達安芸、片倉小十郎、茂庭周防、石見、原田らの勇将と共に二千七百騎を率いて白川の関を超えた。
 ところが伊達の大城戸(阿津賀志山)で待ち受けた大崎の軍は強く伊達勢は総崩れになり政宗、小十郎など八騎がようやく近くの山の中の古びた八幡神社に逃げ込んだ。
 堂守の老婆に小十郎が食物を懇願すると老婆は「食物はないが本日は八幡様の祭日なので濁り酒がある」と一同に振る舞った。すると政宗以下は一気に気力・体力を回復した。老婆は更に「この下の沼を船で渡れば大崎の陣の背後に出る。本陣に討ち入って、正否は置いて『大崎の大将を討ち取ったぞ』と大声を上げたら総崩れになるだろう」と教示した。政宗は残兵を集めて沼を渡り、計画通り大崎軍は崩壊、葛西も降伏した。
 岩出山に落ち着いた政宗は八幡神社にお礼の使者を使わしたが堂守の老婆はおらず、政宗の与えた甲冑の上帯が社殿の鈴の引き綱になっていた。政宗はあの老婆が八幡神の化現だったと気がつき、以後仙台大崎八幡神社の祭礼には濁り酒を出すこととした。
・・・

 大正十二年ころ『河北新報』に連載された「伝説と口碑を訪ねて」という連載記事の一部です。『大正期怪異妖怪記事資料集成』下(湯本豪一編、国書刊行会・2014)で読むことができます。まあ、失礼ながら昭和後期の仙台で出版された伝説集より遙かに面白いのは確かです。

 私達はこういう話を「史料にない、『伊達治家記録』にない、土民の捏造、妄語、歴史は正しくなくてはならない」と否定してきたのですが、そのかわり何か大切な物を置き忘れて来たのではないか? と思うことがあります。


Re: 奥州征伐をもう一度 野ア 準 - 2017/12/20(Wed) 15:34 No.3290  


『河北新報』記事の正式のタイトルは「滅び行く伝説と口碑を索ねて」で大正13年12月から14年11月まで、最終回は190回とありました。
 初めて聞く話が多く、昔の資料もこまめに探しておく必要があると痛感しました。


米沢市館山城の調査 投稿者:野ア 準 投稿日:2017/11/30(Thu) 18:42 No.3286  

『日本歴史』2017年6月号の文化財レポート 佐藤公保「山形県米沢市館山城跡の調査」を読みました。

 米沢市の西の山裾、大樽川と小樽川に挟まれた大地に土塁と空堀で郭をつくり、「北館」「東館」「南館」の地名が残ること、北館は平成13年の調査で掘立建物33,井戸7を含む9期に分けられる遺構、東館も平成15,23,24年に調査され、枡形虎口と石垣が発掘されたこと、石垣は凝灰岩で隅が算木積であり、未完成で破却されていることから上杉氏時代と考えられる事、遺物は中国輸入陶磁器、瀬戸・美濃・唐津の陶器、内耳土鍋、カワラケなどが出土。とありました。

 史料による考察も興味深かったのですが、梁川城・西山城・大森城など信達の戦国期城跡を見た経験からは、山上で発掘されたのは「詰めの城」で、武家屋敷や神社仏閣、城下の市場などが二つの川の東側、今「館山」と呼ばれている地域ではないか、住居表示改正前の地名、地籍図による古い町割りの検出などが必要ではないかと思いました。この報告では上杉氏時代の米沢城が館山城の里館のように記されていますが、少し遠すぎるような気がします。

 いつか越前一条谷の朝倉館跡のような遺跡が見つかるのを楽しみにしています。


Re: 米沢市館山城の調査 武水しぎの - 2017/12/08(Fri) 14:50 No.3288  


館山城、去年行ってきました!
伊達の城説、上杉の城説。石垣が上杉説のポイントのような印象があります。

おっしゃるように館山城が松が岬の詰めの城というのは無理があると思います。遠いのはもちろんですし、見通しも悪すぎるように思います。

そして館山城下町も同じように思いました。

二つのお城の関係がとても気になっています。

輝宗が住んだ舘山ですが、直接に松が岬の米沢城と関係するというよりも。

大森城(成実)と八丁目城(実元)
小浜城(政宗)と宮森城(輝宗)

の関係と似てる気がします。どちらも後者も城下町を伴ってますし。


伊達輝宗公 越後に出兵? 投稿者:野ア 準 投稿日:2017/10/16(Mon) 19:07 No.3280  

 明治末期に三省堂が出版した日本最古の大百科事典『日本百科大辞典』を読んでいました。

「だて」の項目には伊達綱宗、伊達綱村、伊達輝宗、伊達政宗、伊達行朝と伊達騒動の伊達安芸宗重が記載されています。まあ、明治の国史の先生方の執筆ですが。

 その中で輝宗の項に、「信長と音信を通じ上杉を謀らんと謙信死後越後に出兵す」とありました。

上杉謙信の死後長期にわたる景勝・景虎の後継者争い「御館の乱」で会津の葦名盛氏、米沢の伊達輝宗が北条氏に近い上杉景虎方に味方した事、乱の終結後新発田重家が葦名・伊達を後ろ盾に上杉景勝から独立して七年も抵抗をしたのは知られていますが、輝宗公が越後に出兵したというのは寡聞にして知りません。『性山公治家記録』でも精読すればあるのでしょうか?


Re: 伊達輝宗公 越後に出兵? 野ア 準 - 2017/10/25(Wed) 19:47 No.3282  


 「伊達輝宗が織田信長と信を通じ上杉謙信の死後越後に出兵した」の執筆者は渡辺世祐(よすけ)とありました。明治13年〜昭和32年、東京帝国大学史料編纂官で中世史の権威だった方です。何か根拠となる史料があったのでしょうか。これが事実だと上杉景勝と伊達政宗の関ヶ原前後の戦いも遺恨試合めいて見方が違ってきます。

 新発田重家の乱は織田信長の後押しがあり、上杉景勝は天正十年(1582)には織田軍の攻撃も受けて滅亡寸前まで追い詰められたのですが本能寺の変で救われました。それでも新発田重家はその後天正十五年に討ち死にするまで5年間も抵抗を続けました。


無題 投稿者:Y子 投稿日:2017/09/04(Mon) 00:51 No.3276  

初めまして、福島市在住の者です。
実は、私の実家の裏山に「伊達政宗の娘」を供養するお地蔵さんを祀っているのですが、これは「伊達成実の娘」の誤伝ではないかと考えています。
福島市の国道114号線から大波という場所に向かうところを「渡利中山」と言って、そこの崖から馬に乗った政宗の娘が落ちたという伝説があり、実家の裏山のお地蔵さんは、そのお姫様を供養するものだと言われています。
こちらにて、福島市の「ワタリ」に成実の妻がいた伝説が紹介されていて、ワタリ繋がりからあのお地蔵さんは、成実の娘の可能性が高いと思いました。


Re: 無題 野ア 準 - 2017/10/16(Mon) 18:29 No.3279  


「前の10件」あたりに「信夫大森城と成実君」という投稿がありますが、その中に出てきたと思います。


刀剣入門書に伊達家の刀剣が 投稿者:野崎 準 投稿日:2017/07/11(Tue) 14:37 No.3269  

 小和田泰経氏の『刀剣目録』(新紀元社2015)を読む機会がありました。古今の名刀260振の解説書です。日本刀成立後から幕末までですが名前だけで今は失われた名刀も含まれていました。

 仙台伊達家関係では8振。伊達政宗公関係は「鎬藤四郎(吉光)」「鎺(はばき)国行」「陸奥新藤五(国光)」「燭台切光忠」の4振。それと伊達忠宗公の「別所貞宗」「太鼓鐘貞宗」「大倶利伽羅広光。家臣では伊達実元の「宇佐美長光」が紹介されていました。

 塩釜神社に奉納された刀剣や、永コレクションに入り現在京都国立博物館蔵の「和久江(郷義広)」などもはいっておらず、「観瀾閣宝物目録」に見える多数の政宗公寵愛の名刀も出ていません。

 宇佐美長光も「現北海道伊達市開拓記念館の二尺四寸五分の太刀」と、いささか考証が簡素に過ぎます。これを手掛かりに奥深い刀剣の森を各自ご訪問下さい、という本でしょうか。


Re: 刀剣入門書に伊達家の刀剣が 武水しぎの - 2017/07/15(Sat) 12:04 No.3272  


刀剣は奥深い森と沼かと。。。。。。
宇佐美長光は今秋の仙台の政宗展にくるそうで、見にいくのを楽しみにしています


馬がしゃべった! 投稿者:野崎 準 投稿日:2017/07/05(Wed) 19:54 No.3268  

「日本民俗学叢書」の昭和2年刊 磯 清『民俗怪異編』は全国の民話から「首なし馬」「化け猫」「狼」など動物中心の怪異譚を集めていますが、その中に「人語を語る馬」の話として寛政年中(1789-1801)鈴鹿峠の荷馬が馬方に扱いが悪いと愚痴を言ったこと、天保五年(1834)東海道藤沢―大磯間でこれも荷馬が人語を語ったという噂話を述べ、次いで「延徳元年(1489)足利義煕(義尚)将軍の近江国鈎の陣で葦毛の馬が『いまは叶ふまじ』と言い、河原毛の馬が『あら悲しや』と応じた。厩にいた全員が聞いたといい、翌日義煕公は急に薨じた」とありました。

 どこかで聞いたことがある、とネットにあたりましたら幕末尾張藩士の三好想山が書いた『想山紀聞奇集』に全部出ていると分かりました。足利将軍の話は「伽婢子」によるとありましたから中世にさかのぼる伝説でしょう。

 我らが成実君の著作にも大崎攻めの時馬が「敵の太鼓遅し遅し」としゃべり、敗戦の予兆だったように記されています。民俗学、国文学の解説者は「奇妙な鳴き声を人語と聞き違えたか、動物をダシにして神託のように演出したか」と覚めていますが、動物が人語を話す稀有な例として記憶したい事項です。


Re: 馬がしゃべった! 武水しぎの - 2017/07/15(Sat) 12:02 No.3271  


人語を解する馬の話と人語をしゃべる馬の話。似たように思っていましたがこうしてご紹介いただきますと後者は意外と珍しいのですね。

ヒトならぬものがものをしゃべるというのは多いように思いますが、馬がしゃべるのは稀有というのが少し意外でした


疾風十一騎 投稿者:野崎 準 投稿日:2017/05/19(Fri) 20:11 No.3263  

「信長甲州に攻め入れし比、秀吉は筑前守とて、西国毛利家に向て、甲州の軍に従はず。勝頼死して甲州平均なりといふを聞き、秀吉大息ついて、『あたら人を殺したる事の残り多さよ。我軍中にあるならば、しひて諫め申して。勝頼に甲越二州をあたへて関東の先陣としたらんに。東国は平押しにすべきに』とくりかへし悔やまれけり」(常山紀談)
 東国の騎馬隊の威力を西国大名が恐れていたことを示す話です。

 大阪夏の陣で真田信繁方に「上穂(うわぶ)十一騎」がいたと長野県駒ケ根市では伝えています。同地の武将千村家の騎士、駒ヶ岳大弐坊、春日昌光、小林義国ら十一人が真田に加わり「道明寺口で伊達政宗と戦った」と伝えていました。長野県南の大寺、駒ケ根市光前寺に慰霊碑(明治時代)があります。この付近は諏訪氏など甲州騎馬隊の本場でしたから、この伝説は武田の騎馬隊が奥州の騎兵と激突した唯一最後の戦いだったのかも知れません。



Re: 疾風十一騎 武水しぎの - 2017/06/03(Sat) 21:50 No.3265  


お教えありがとうございます。
武田の騎兵と伊達の騎兵が大坂で激突する、というのも不思議なめぐりあわせですね。。。


Re: 疾風十一騎 野崎 準 - 2017/06/12(Mon) 21:30 No.3266  


 道明寺の戦いで、大坂方の歩兵を蹴散らし破竹の勢いだった伊達の奥州騎馬隊を押しとどめたのは旧武田家臣で騎馬の扱いを心得ていた真田幸村、というのは諸書の記述から納得できますが、槍をもつ歩兵だけで伊達軍の先鋒を七八町押し返したとあるのが不審でした。もし少数と言え真田軍にも精鋭の騎馬隊がいたとすれば納得がいきます。

伝承とはいえ大坂方最後の攻勢にこの「上穂十一騎」がいたとすれば、長篠の戦い以後声なしだった武田騎馬隊の最後の栄光。駒ケ根市の方々も「同時代史料に無い、後世の捏造」と無下に抹消せず、語り伝えていてくれたのは有難い事と思います。最後の武田騎馬隊、上穂十一騎よ、安らかに。


能『千引』は多賀城の話 投稿者:野ア 準 投稿日:2017/03/16(Thu) 18:43 No.3260  

 宮城県多賀城市の史跡多賀城跡の西よりに「志引」という地名があります。多賀城南門近くの重文「多賀城碑」と関係する地名です。

 『室町時代物語大成』(角川書店)に『つぼの碑』という物語が載っています。「むかし陸奥の国府のあるけふの郡に巨石があった。坂上田村麻呂が悪路王を討伐した時に矢筈で日本中央と刻んだ石である。つぼの碑と呼ばれて信仰を集めていたが・長い時間の後祟りをなす様にもなり、守護の甲斐の某は石を運び去り破壊しようと決めた。郡内の人々千人を集めて縄をかけて引いたが巨石は動かせない。付近の娘の所に貴人があらわれ、自分はこの石の精だが汝は正直なのでお前が一人で引けば動くようにしてやる、と告げた。娘が申し出て綱を引くと千人で引いても動かなかった岩は坂を下る車、棹で操る船の如く自由に動いた。娘の話を聞いた守護は娘の正直に感じて大いに褒美を与え、裕福になった娘は僧を集めて破壊された巨石を供養した・・・」という話です。

 有名な話らしく、多賀城の地誌には「千引がなまって志引という字名になった」とされています。能にもこの物語を脚色した『千引』が宝生流にあるそうです。

 江戸時代に大日本史編纂のため水戸光圀公から「この石は今どうなっておるか?」と聞かれた伊達綱村公が宮城郡内を全面発掘して発見したのが「多賀城碑」だといわれており、江戸時代からこの碑が伝説の「壺の碑」なのかいろいろな論争がありました。今は歌枕の「壺の碑」は青森県上北郡の都母にあった碑で多賀城の碑とは違う、ということになっています。多賀城の発掘も続いていますが破壊された石碑が出土したという話も聞きません。

 みちのくの奥ゆかしくぞ思はるる つぼのいしぶみ外の浜風 西行


Re: 能『千引』は多賀城の話 武水しぎの - 2017/03/20(Mon) 22:17 No.3261  


「千引の石」の説話は聞いたことがありますが、多賀城とは知りませんでした!
何カ所か比定地があるようですね。
宝生流の「千引」は明治に廃曲になりましたが、復曲もされているようです。


Re: 能『千引』は多賀城の話 野ア 準 - 2017/03/21(Tue) 06:30 No.3262  


旧南部領で今は青森県上北郡内にある千曳神社の伝承は『御邦内郷村誌』という南部盛岡藩の地誌に出ており:ご神体の石の精が村の娘「壺」に語り、石は神社の地下に埋められ「壺の石」と呼ばれたとなっていました。青森県の民俗研究者は近くの「つぼの碑」伝承と混同された話だとしています。

多賀城市志引の伝説は仙台市岩切の千曳の巨岩を娘がここまで飛ばした。娘は観音の化身だったと更に脚色されて伝わっているようです。一番古いのが室町時代の『つぼの碑』で、伝わったそれぞれの地で地元の物語を加えられたのでしょうか。


伊達実元の城 投稿者:野崎 準 投稿日:2016/11/23(Wed) 17:05 No.3253  

『信達一統志』鼓岡邨 八丁目と相並びて北の方なり。

 西館 花街の西にあり。本丸跡竪三十間横二十間なり。天正年中芦野修理之亮家臣堀越能登守居住せり。案内記に云う。伊達左京大夫輝宗の臣清野備前守其子遠江守居住す。其の後に堀越能登守居るとなむ。信達古語に清野遠江守その君輝宗に背けり。その罪によりて西館において生害す。其あとに堀越能登守居住せり。堀越また二本松畠山義継に同意す。輝宗怒りて伊達藤五郎成実を以て攻めしむ。堀越遂に利を失ひて生害す。是より成実住居すと云。伊達鑑に大善太夫晴宗の舎弟兵庫頭基実隠居すとなむ。基実は成実の父なり。
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